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ありふれた日々に花束を

 て困ったぞ。随筆家としては日々のよしなしごとを通して悩める誰かに解決の糸口を見出してもらう、またはシンプルに楽しんでもらう、とかいうのが求められる姿ではあるのだが、残念ながら私には個性大爆発の家族などというものはない。何なら父はいないし、祖父は数年前に亡くなり、祖母は亡くなってからもうずいぶん経つ。妻も子もない。母と二人、それなりによくある普通の一世帯だ。賞を獲ったとか書籍化したとかいう人物たちを眺めてみると、過ごした環境や、何なら出生の時点で個性が雲の上まで突き抜けていてまったく太刀打ちできる気がしない。ボスが強すぎらあ。

 とくちに『エッセイ』と言ってみても、みんな一体どんな事を書いているのだろう。疑問が湧いた勢いのままに先日刊行された伊藤亜和さんの著書を買ってみた。2023年のnote創作大賞でメディアワークス文庫賞を受賞した記事が最初に載っている。

 面白いなあ。普段考えてること感じたこと、ほとんどそのまま描写されているように思う。軽快で小気味よい……というより半分は『ノリ』みたいな、自然な感覚。登場人物がたくさんいたり、気の置けない友人がいたりするのは素直にうらやましい。ただ、サラッと書かれているからサラッと読み進めそうになってしまう文体からでも辛い思いや危険な体験を経てきたのであろうと思われる部分がそれなりにあって、面白く読みながらも『何で人間ひとりがフツウに生きていくのがこんなに難しい世の中なんだろう』と、複雑な気分にもなっている。最初はこう、世界に見つけられた天才に対してやっかみ半分の記事を書こうとしていたから、反省の意味でも読んで良かった。都会こわい。

 がしかし、多少の困難こそあれ『ヒト一人が普通に生きて』きた場合、世界には私のようなフツウの中年がひとり増えただけだったかもしれない……などと想像すると、それはそれでフクザツでもある。二十歳までに名字が二度三度変わったとかいっても特に珍しい話ではないし、転職が多い方だといってもそれをネタにするには桁がひとつふたつ足りない。祖父母をロボットの体とAIの頭脳でよみがえらせるわけにも、もちろんいかない。父親は生きているものの……と考えたところで、そういえばウチの母親と再婚したのち結局離婚した義理の父親だった人は刑務所の中で病気によって亡くなったと風の噂に聞いた覚えがあるな、と思い出した。確かに良い思い出の方が少なかったかもしれないが、人間誰しも死ねばそれまで、何も死ぬことはないだろうに、としんみりしたことも覚えている。もう何年か前の話だ。

 きてる方の父親とは会おうとすれば会えなくはない。とはいえ向こうには向こうの家庭がある。こちらもかつての親戚つながりで小耳に挟んだところによると、父はうちの母親との分を含めて二度の結婚と離婚を経て三度目に結婚したフィリピン人の女性と暮らしているはずだ。父母ともにバツふたつ、君ら結婚へたくそか。ただその話を聞いたのも十五年ほど前の話だから、今現在どうなっているのかは知る由もない。当時取った戸籍抄本によればどうやら私と私の妹のさらに下に異母兄妹が三人いるようだが、よほどの出来事がなければ顔を合わせることもないだろう。十五年前は幼かったかもしれない彼らも、とっくに成人している頃だ。彼らには彼らの家庭も事情もある。

 んなもんさ。特別そうに見えるちょっとした非日常だって、無理に手を伸ばす必要がないならそっとしておいてたのでいいじゃないか。毎日は平凡でもそれなりに忙しく過ぎていってる。時に心の余裕を失ってしまうくらいには。特に輝いてもいなければ珍しさもない些細な日常は、そもそも他人にそこまで興味のない人々の目にはなかなか留まることもない。それでも、意味や価値を持たないわけじゃあない。進むも退くも立ち止まるも、皆それぞれの場所で懸命に生きているだけじゃないか。そうやって生きてきたこれまでを平凡の一言で切り捨てたんじゃ、自分で自分をバッサリやってるようなもんだ。気分が上がってる時くらいは胸を張っていようぜ。

 ありふれた日々に、感謝を込めて花束を。
 独り身の気楽さと背中合わせの侘しさを友にして、部屋の窓から眺める変わり映えしない世界を、今日もまた書き留めるばかりだ。

 それじゃあ、じいさんとばあさんの墓参りに行ってきます。

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