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サヨナラだけが人生さ。

 月九日午前七時、雨が強い。ついでに風まで強い。ついこのあいだ咲いたばかりの花にとっては早すぎる桜雨、ここ数日はすっきり晴れた日も少なかったために、花見気分もいまひとつパッとしないまま荒天とともに見頃が過ぎ去ろうとしている。儚いったらありゃしない。近くに小川でもあれば風に散って舞う花弁と水の流れに揺蕩う花弁とのセットでより風流を感じられようが、残念ながら樹の近くには道路しかないため、落ちたそれは人や車に踏まれるばかりである。やっぱり儚いったらありゃしない。

 に嵐のたとえをここまで見事に現実にしてくれなくてもよかろうに、と降りしきる雨を眺めつつ、いざその時がやってきたら予兆も余韻もないのかもな、などと想像しないではいられない。さよならだけが人生だ、なんてずいぶん極端な訳をしたものだと、寺山修司が新しい詩まで作って反駁するのも頷ける話だと思っていた。しかし出会ったからには遅かれ早かれ訪れる別れだけが定め、途中にどれだけの出来事や交流があるものか分からずとも、別離だけは誰しもが約束された運命、てなことを考えると、井伏鱒二のこの訳はやはり絶妙というか、元の詩の意味を踏まえたうえで本質をより分かりやすく表しているといえる。

 れSNSでブロックされたとかアカウントが凍結されたとか、そういったタップ一回もしくは運営の気分次第みたいな細々したものまで含めていいのなら、時代とともに『別れ』も多様化したものと捉えていいだろう。『勧酒』が詠まれた唐の時代よりは。オンラインでのつながりしかない友人だって決して少なくない昨今、交流が途絶え、精神的な部分での距離感が離れてしまったなら『別離』と呼んでも大袈裟ではない、と主張したい。積み重ねてきた時間の長さでいえば、最近まったく会っていない同級生より顔も知らないフォロワーの方がよほど『古い友人』だ。

 ヨナラだけが人生だと唯一確定している未来に、抗いきれない死を見るか、より鮮やかな生を見るか。個人的にはより良い死に様のためにより良い生き方をしていきたいところだが、それほど難しく考えずに今を面白おかしく過ごすだけでも、それが真剣な行いであればやがて充実した人生を振り返ることもできよう。メメント・モリの解釈も、時代とともに少し移り変わっているようだけれど。
 死を思え、花発けば風雨多し――とはいえ今現在縁の深い人たちとはなるべく長く共に歩んでいたいね。一人は時折、寂しいものさ。願わくば死が我々を分かつまで、とか言ってみても、もしかして最初にくたばるのは私かもしれないから油断はできないが。

 分という物語のエンド・ロールになるべく多くの人の名が刻まれるように、また誰かの物語に名を残してもらえるように……ま、お互いほどほどにがんばっていきましょうぜ。

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