見出し画像

ガラスのハート

 雨が降っていた。いつ止むともしれない雨だった。
(今日は、お客さん来ないかも)
 山際の小道沿いにガラス作品のギャラリー兼販売店を構える優愛は、テーブルで頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
 元々人通りの少ない場所、といっても晴れていれば近所の住人が通りがかったり、散歩がてらお店を覗いてくれたりする人もいる。それが今日はまだ誰とも会っていない。しとしとと降り続く雨の音だけが耳についた。普段は度が過ぎるほど賑やかな虫たちも、すっかり息をひそめている。
 テーブルの端には新作になるはずだったガラスフュージングの失敗作が置きっぱなしになっているが、片付ける気力も湧かない。今日はいっそこのまま臨時休業か――怠けるのに適した理由のひとつでも降ってきてくれれば、などとぼんやり考えながら、なおも外を眺めていると、人影がすいと通り過ぎるのが見えた。続いて入り口のドアが揺れ、ずいぶん控えめなノックが聞こえる。うっかり鍵を開け忘れたかもしれない。優愛が慌ててドアを開けると、ひとりの女の子が立っていた。
「いらっしゃいませ」
 ひとまず店の中に招き入れてから、優愛は改めて女の子の様子をうかがった。初めてのお客である。年の頃はおそらく十代の、まだ前半くらいに見える。この辺りに住んでいるのだろうか。
 しかし、それよりもなお気になったのは、この少女が全身をほのかに濡らしてしまっていたことだ。あまり強い雨でないといえ、傘もささずにここまで来たらしい。他に雨具を持っている風でもない。その代わり、両の手で包み込むようにして、小さな箱を大事そうに抱えていた。
「あの」
「どうぞ、座って」
 立ち話は疲れるだろう、何か言いたげなその少女に、空いている席を勧める。本来はガラスフュージングの体験講座のために設えたものだが、幸か不幸か、今日の予約はない。
 優愛はタオルを手渡してから向かい合う形でテーブルに着き、少女の言葉を待った。時間にしてみればごくわずかな間のはずだのに、降り続く雨の屋根を打つ音ばかりが鬱陶しいほど響いて、ずいぶん長くこうしているような錯覚を覚える。
「これ――」
 やがて少女がおずおずと口を開いて、抱えていた小箱を差し出した。あまり飾り気のない白色の、ジュエリーケースのような作りの箱だ。
「――直りませんか」
 またしばらく待ってみても、続く言葉はない。中を見てもかまわない、ということだろう。優愛は小箱のふたを開いて、その中身に目を丸くした。
「これは、ガラスの……入れ物? ううん、違う」
 入っていたのはガラスでできたハートだった。透明で、大きさは握りこぶしよりもひと回りほど小さいくらい、見たところ中は空洞らしかった。こういった形状のビンを目にすることがあるが、このハート形のガラスにはビンの口にあたる部分がない。取っ手や高台もない。
「ガラスの、ハート」
 そうとしか表現しようのない、正真正銘の『ガラスのハート』だ。
(でも)
 ガラスとしてはずいぶん薄いもののように見える。試しに小箱ごと持ち上げてみても、重さはほとんど感じられない。これまでに扱った経験がほとんどないタイプのものということもあって、わからない部分が多い。これが本当に、自分の知るガラスなのかどうかでさえも。
 手に取ってみればもう少し確信を得られることもあろう。しかしそれはできない。
 ガラスのハートには大小いくつものヒビが入っていた。原形を保っているのが不思議なくらいで、迂闊に触れるとたちまち壊れてしまいそうだ。そして今、これを直せるかと問われている。
「ごめんなさい。直すのは……難しい」
「そうですか」
 少女はまっすぐに優愛を見つめている。その濡れた髪のひとふさから垂れ落ちた雫が、頬を伝った。
「吹きガラスの工房で新しいのを作ってもらえば、修復するよりも簡単よ」
 代わりの提案にも、少女は首を横に振った。
 自分の持つ『この』ハートを大切にしたい、そんな痛切な思いが、はっきりとした意思表示から伝わってくる。ただそれでも修復は不可能なのは事実で、事実は変わらない。でもそれでも――それでも。
 少女はなおも優愛の眼をじっと見つめている。何を訴えかけようというのだろう。その瞳はどんなガラス細工よりも美しく、視線を逸らすことのできないまま、優愛もまた少女を見つめている。
 眼前の双眸にそんな自身の姿が映し出されているのに気づくと、優愛はもう一人の自分と相対しているような錯覚を覚えた。視線がぶつかる。何を訴えかけようというのだろう。眼を通して内面を見透かされているような、心の在り方を問われているような、そんな気がした。
「ね、折角だし、体験してみない? ガラスフュージング」
 突然といえば突然の提案に、少女は少し驚いた様子だ。席を立つタイミングを計っていたのかもしれない。やや間をおいてから、しかし今度は首を縦に振った。
「ちょっと待ってね」
 奥の部屋から持ち出してきた材料は、本来は自分で作品を制作するためにストックしてあったものだ。普段は予約状況に応じた準備をしているので、作るものも材料もいつもと少し違ったものになる。
 テーブルに並べた色も形も様々のガラス素材に、少女は大いに興味を引かれたようだ。素材ひとつひとつをしげしげと眺めている。
「それじゃあ、始めましょう」
 作りたいものを思い描き、素材を選び、初心者に難しいところは補助やアドバイスをしながら、二人で一緒になって作品づくりを楽しむ。穏やかでやわらかく、しずかな時間が流れた。やがて最後の工程に取り掛かろうとする頃には、時計の針は思っていたよりずっと先を指し示していた。
「あとは焼成するだけ。でも、時間がかかるの」
 焼成から冷却まで、いくらか時間が必要になる。ここで炉の温度や保持時間の設定を間違えてしまうとガラスの溶け方が不十分だったり、割れてしまったりする。それでは意味がない。
「一週間もあればでき上がっているから、日を改めて、また来てね」
「あの、お金……」
「次、来た時でいいよ。心配しないで」
「……ありがとう」
 ドアを開けてみると、降り続いていた雨は弱まりつつあるようだった。おかげで夜闇が辺りを包むまでにはまだ余裕がありそうだ。暗くなりきる前に帰れるよう願いながら、優愛は少女の背中を見送った。 

 約束の一週間は瞬く間に過ぎて、作品を手渡す日がやってきた。扱い慣れた体験講座用の作品とはやはり違うとあって、出来栄えが気掛かりだからと似たようなサンプルを用意しては電気炉に入れること数回。試行錯誤を繰り返すうちにいつの間にか今日を迎えたのだった。
 少々待たせすぎかとも思ったが、実はこの一週間のうちにも、二回ほどあの少女が訪ねてきてくれていた。小さな用事を作っては会いに来てくれたようで、優愛はそれが嬉しかった。
 先週とは打って変わって、今日の空はすっきりと晴れわたっている。時おり吹き抜ける風が涼やかで心地いい。テーブルに着いて澄んだ空気に身を委ねていると、ほどなくして入り口のドアが開いた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
 少女は相変わらず感情をほとんど表に出さなかったが、それでも初めて会った日に比べれば見違えるほど生気に満ちている。それに今日は特別な日ということもあって、浮き足立っているようでもあった。先日と同じように向かい合ってテーブルに着くと、優愛は小さな箱を差し出した。彼女の持っている箱と揃いになるよう用意した、リングケースほどの小さな白色の箱。
「開けてみて」
 少女がおもむろに手を伸ばして、大きく息を吐きながら小箱のふたを開ける。中に入っているのはもちろん、二人で作り上げたあのガラスだ。
「きれい」
 ため息にも似たつぶやきが漏れる。少女は完成したガラスを手のひらに乗せて、室内の照明に向けてかざした。光を受けたガラスはきらきらと輝いて、その美しさを増す。
「これも……わたしのハート」
 やや厚みがあって丸みを帯び、表面のなだらかな膨らみに薄く模様を配したこのガラスは、ハート形をしていた。
「どうかな。気に入った?」
「うん、大事にする」
 両の手で小さなハートを抱きしめる少女の様子に、優愛も心から安堵する。直せなかったハートの代わりとは言わないまでも、気持ちが前を向くための一助となれたなら、ひとりのガラス作家として冥利に尽きる。
「あの、それから」
 今度は少女のほうから、自分の小箱を取り出す。その箱は前に見せてもらった、あのヒビの入った『ガラスのハート』が収まった箱だ。
「もう一度、見てもらえますか」
 本当はやはりこちらも直してほしいのだろうかと、優愛は一瞬、心臓が止まる思いがした。伏し目がちに中のハートに視線を落とし、あることに気づく。
「ヒビが、目立たなくなってる」
 今にも壊れてしまいそうなほど入り込んでいたたくさんのヒビが、何となく以前より浅く、薄くなっているような気がした。傷は残っているものの、これなら軽く指で触れる程度なら大丈夫そうだ。
「きっと、お姉さんのおかげ」
 少女は二つのハートを並べて、にこやかに微笑んでいた。優愛も初めて目にした、屈託のない笑顔だった。
「また、遊びに来てもいい?」
「ええ、いつでも……あ、でも、フュージング体験は予約してもらった方が助かるかな」
 そう言って優愛が名刺を渡すと、少女はその名刺を穴の開くほど見つめる。
「ありがとう――わたしも、お姉さんみたいな素敵なガラス作家になりたいな」
 希望に目を輝かせて夢を語る少女の姿に、優愛はどこか懐かしさを覚える。自身にも確かにそんな時期があった。あれはいつ頃のことだったろうか――。
「なれるよ、きっと」
 やさしさに溢れた空気と、窓から差し込む黄金色の陽光とが、ガラスのハートをいっぱいに満たしていた。

読んでいただきありがとうございました。よろしければサポートお願いいたします。よりよい作品づくりと情報発信にむけてがんばります。