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僕らはいつも吾唯足知
さて前回は全然やる気が出なかったから今日はスイッチを入れるとしよう。カチッとな。ハイ終わり。昨日のことは昨日のこと、切り替えは素早い方がいい。と言いながらこのやる気スイッチとかいうやつも、動かない時はテコでも動かないから困ったものだ。そういう時は心のサビがとれるまで待つしかないのもまた歯がゆい。まあ本当に疲れている時もあるし、無理はしないでおこう、お互い。
そういえば寝て起きてnoteを開くと、こんなのをいただいた。
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うれしくないことはないのだが、当該記事のスキ数は30に満たない程度だ。それでいて『先週特にスキを集めた』というのだから、他の方の記事がどれだけ振るわなかったのか、あるいは日常を書き留めている人がそもそも少ないのか。どちらにせよほとんどのユーザーは日常の一コマみたいなものにさほど興味がなく、ひたすら自己啓発書やビジネス書のような『学び』に執心しているのだろうか、と考えると、うら寂しい部分もある。
ありふれた日々に花束を。そう言いながらひとつ前の記事で『雑な学びを主張するわけでない』とも書いた。変わらず過ぎていく毎日や、何でもない、何もない日だって大切なのは当然の真実だ。ただし、適当に聞こえの良い言葉を挙げて安易に『学び』の看板をぶら下げたのでは『雑』と言わざるを得ない。記事によって何かしらの価値提供をするなら、もうちょい深く追究するのが提供する側の務めではないか。ということで、なんとなく良い事言って『これが今日の学びです』みたいなフワッとした主張はしないよ、という意思表示だ。
だいたい、普通の毎日を大切に、なんてのは良識ある大人ならある程度は分かっているべき心構えなのだから、似たような言葉だけ拾って学びとするには弱いだろう、小中学生ならともかく。しかし分かっているつもりでもオトナの毎日はそれなりに忙しく過ぎていく。やりたい事と、やるべき事と、やらなくてはならない事と、をひとつずつ片付けていくうち、つい抜け落ちてしまう大切な思い。それを改めて見つめてみたい。
今の自分があること、
家族がいること、
仲間や友人がいること、
大切なひとたちとの思い出を振り返れること、
衣食住が揃っていること、
生活基盤が維持されていること、
それが誰かの仕事で支えられていること、
自分自身もその中の一人であること、
何らかの必然によって生かされている中で、
今の自分として生きていること。
たくさんの営みが組み合わさって出来ている、一見すると『普通』の日々は、そうそう大きな幸せが感じられるものではないかもしれない。けれど、失ってから本当の価値に気付いたのでは遅く、また勿体ないものだ。毎日は疲れるかもしれないけれど、たまには何事もなく過ぎていった貴重な一日に感謝の言葉を唱えてもいいんじゃないかなと、そんな風に思う。
吾唯足知、足りないと思い込んで穴を埋めるためでなく、視座を高く持つために積み上げていきたいね。学びでも何でもさ。
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