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夢現交差点(2)

 海ぎわの道路へと車を走らせていた。時刻は午後九時、辺りはうすぼんやりとした夜の闇と、季節の移ろいとともに冷たさを増してきた空気とに包まれていた。
 向かっているのは、ひと月ほど前に訪れたあの喫茶店だ。個人経営の小さな喫茶店は営業日がまばらで、営業時間もそれほど長くなく、どうしても足を運ぶ機会を逃してしまうことがある。ちょうど、今この時のように。
(可笑しなものだ――なんとも)
 今日は営業日には違いなかった。しかし店は日が落ちるころには閉まってしまう。仕事の都合でちょっと外にも出られない、ということになれば、もうその店で珈琲をいただくのは諦めざるを得なかった。
 ただ、そうと心得ていても赴いてみたくなるだけの十分な魅力を感じていたし、もしかすると……などといったかすかな望みも捨てきれないのだった。今日を逃せば、次に来られるのはまた一月後、ということになりかねない。

 小ぢんまりとした駐車場に差し掛かったとき、当の店舗の建物にほのかな明かりが灯っているのが見えた。居住スペースだろうか、とも考えたが、この道路から見える、普通の来店の際にも目にしている灯かりは店舗側のものに違いない。
 本当に妙だな、と思いながらも車を停め、店舗入り口の引き戸に手をかけてみると、鍵はかかっていない。いつもよりやや暗めながら照明も点いている。遠慮がちに敷居をまたぐと、すぐ傍にあるカウンターテーブルの奥から何者かの気配がした。
「いらっしゃい――あら、めずらしいお客さん」
 出てきたのはあの女主人だ。本来なら閉まっている時間のはずだし、他の客の姿は見えない。店内は心なしかいつもより静かでしんとしている。
 女主人も昼に会ったときと少し雰囲気が違う。洋服でなく、着物を着ている彼女と会うのは初めてだものだからそう感じられるのだろう。素朴な店の内装に合う、草色の着物で迎えられる。
「お抹茶、如何です」
 お抹茶――珈琲だけでなく、そういえば抹茶もいただけたと記憶している。
「じゃあ、今日は抹茶を」
 せっかく勧められたものだしと、今回は茶を頼んでみることにした。普段口にするのは珈琲ばかりで、抹茶といえばお菓子のフレーバーくらいでしか馴染みがない。たまには良いお茶を飲んでみるのも悪くなかろう。
 二階は主に喫茶スペース、一階にはお手製の本棚にいくらかの書籍が並べられている。ブックカフェ、といって間違いはないものの、和の色が濃い店構えからすると『図書喫茶』とか『読書喫茶』などと表してみた方がより想像がしやすいかもしれない。二階に上がる前に、並んだ本に何気なく手を掛ける。が――。
(棚から、抜けない)
 別段、棚にぎっしり本が詰められている、というのではない。天面の端、背表紙の上あたりを強めに引っ張ってみても、何故か本は動かないのだ。触れいているのに触れていない、あるいは触れているのかいないのかすらはっきりしない、またあるいは、ここに『ある』のに『ない』かのような……。

 本を手に取るのは諦め、二階への階段を上る。階段はちゃんと上れたし、手すりも掴めた、にもかかわらず何処かがおぼつかない。いつも座る文机に腰かけてからも、奇妙な違和感が拭えずいた。
「どうぞ」
 一体どれほど待っただろう。いや、時間にしてみればごく短いはずだ。差し出された茶碗からは、珈琲とはまた違った馥郁たる香りが広がっている。
 色柄のない無地の器にもひと通り目をやって、点てられた抹茶を一口ばかり口に含む。ほんのりと甘く、想像していたより苦み少なな、円やかで清しい味わい。茶に詳しくなくとも、乱れた心を落ち着かせるだけの温もりが確かにある。
 ひとまず落ち着きを取り戻してから、違和感の正体についてもう一度考えてみることにした。何か変わったことがあったろうか。こんな時間に店が開いている、それ以外に。
 下の階から茶を運んできた女主人が、抹茶碗を盆から机へと移す。そののちに軽く正座して一礼。客への敬意と礼節がうかがえる、彼女のいつも通りの所作――
 いや、いつも通り――ではない。
 顔はよく似ている。背格好もほぼ同じ。だが深く注意を払って眺めると、ひとつひとつの手の動き、ちょっとした仕草、立ち振る舞いなどが、微妙に異なっている、気がした。『彼女』は私が知るこの店の主人とは、もしや別人では――しかし双子でもなしに、そうとわからないほど外見が似ることなどあるだろうか。
「この店は、もう長いのですか」
 わずかな逡巡の後、意を決して聞いてみることにした。立ち上がり、背を向けようとしていた女主人が此方に向き直って、答える。
「――ええ。お店の形は一寸ちょっとずつ変わりながらでも、此処でずっと昔から」
 そんなはずはない・・・・・・・・。よく通うこの店が開店したときのことを、知らないわけではなかった。この店はまだ、開店から数年も経っていないはずなのだ。
「あぁ、でも」
 でも、何だろう。『彼女』の笑顔が、少しばかり明るくなった。
「生きてるお客さんは、久し振り――」
 どきり、と、一瞬ばかり心臓が跳ねた。生きてる客は、ということは、そうでない客はそれなりにいる、ということか。まさかここは現世でなく、『他の客の姿』は『見えない』『だけ』だとでも。
 先ほど口をつけたばかりの抹茶碗に視線を落とし、にわかに不安におそわれる。果たしてこのお茶は『生きてる』客が飲んでも平気な代物なのだろうか。ただ、もてなしや振舞われた茶の味は悪いものには思われなかった。

 帰途についたのは日をまたぐよりやや早くのことだった。先刻までの奇妙な体験になおも心奪われつつ、車で来た道をまた戻っていく。街灯の少ない真夜中の道路はさぞ暗かろうと思っていたが、ライトがなくとも走行できそうなほどに、辺りはやけに明るかった。フロントガラス越しに夜空を見やり、ようやく、今日がその日であることに気付く。
(そうか、満月)
 空には丸く大きな月が浮かび、煌々と地上を照らしていた。満月の夜、ひとときの間、この世とあの世の境が曖昧になる、などということも、あったりするだろうか。

 しかしながら、過ぎてしまえば現世か幽世かの違いだけ――とある秋の日のことだ。

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