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夢現交差点(3)

 昼下がり。すっかり馴染みとなったいつもの喫茶店で、今日も心ゆくまで寛ぐことにしよう、などと思いながら入口の戸を引いた。すぐ傍のカウンターに店主の姿がないのは二階に上がっているからだろう。客の姿はさほど多くなく、といっても決して広くはない空間だ。片手の指ほども人がいれば十分に繁盛しているように見える。
 適当に本棚の本を手に取って、パラパラとめくってみる。開店日がまばらなブックカフェながら、棚に収まっている本はいつも微妙に異なっていて面白い。同じ空間ながら毎回違った出会いがあるのはこの店の良いところのひとつだ。特に絵本などは、この場所でなければ開くこともなかった。
 やがてパタパタと階段を下りてくる音がして、女主人がカウンターに戻ってきた。こちらもすっかり見慣れた顔だ。今日は着物ではなく洋装で出迎えてくれた。涼やかな白ブラウスが眩しい。
「あら、こんにちは」
「こんにちは」
 月に一度か二度のペースながら何度か通ううちにこちらの顔も覚えてもらえたようで、交わす挨拶も屈託ない。が、今日は特に浮き足立っているように感じる。どこか嬉しそう、というか。
「今日は、歌の人がいらっしゃっているんですよ」
「歌の人ですか」
 一階にはそれらしい人の姿は見えない。いずれ珈琲をいただくときには上へ移動するのだしと、注文を済ませてから二階を覗いてみることにした。

 部屋の手前と奥、二つ置かれた文机の奥の側に、その青年はいた。傍らに立て掛けられたアコースティック・ギターで、すぐに『歌の人』だとわかる。身なりの華美でない様は店の佇まいともうまく調和がとれていて、何とも落ち着いた雰囲気だ。
 彼は机と揃いの椅子に腰かけ、珈琲を飲んでいた。他には二組ほどのお客さんがソファに掛けていて、そのちょっとしたざわめきを窺うに、どうやら一曲歌われた後のようだった。
 分野は違えど、芸術に対する興味は尽きない。ちと惜しいことをしたかな、などと思いつつ適当に空いている席についた。ややあって女主人が注文の品を運んできてくれる。珈琲と、一緒に頼んだ小さな和菓子とがテーブルに置かれ、一言ずつ言葉を交わす。と、ひと仕事終えた女主人が歌の人の方へ向き直った。
「良いですか、私にも――一曲いただいて」
 なるほど彼女は歌や音楽が好きなのだ。昨今、音楽家の生演奏、生歌が間近で聞ける機会もそう多くはなかろう。今日もずっと聞いてみたかったに違いない。仕事の途中、とはいえ、それをとがめるような客もこの店にはおるまい。
「では……」
 リクエストに応え、青年はおもむろにギターを手にする。指先が弦をひと撫でし、やがて室内に音が満ちていった。
 よく通る、落ち着いた歌声に、ゆったりとしたメロディ。午後の長閑なひとときに耳を傾けるにはぴったりの一曲だ。曲に乗って人柄まで伝わってくるように思える。此処にいる皆が、静かに聞き入っていた。

 海の見える、小さな喫茶店。さざなみを眺め、波音を聞きながら、ギターの調べに身を委ねて、珈琲のカップを傾ける。まだ少し、蝉の鳴き声がまじる。どこか現実でないような、ドラマのワンシーンのような――。

 曲の終わりとともにギターの音が止む。曲を弾き終え、小さく辞儀をする『歌の人』に小さな拍手を送ると、余韻の薄れと同じ速度で現実の戻ってくる気配がした。もちろん、今日のこの出来事も現実には違いない。しかし、滅多に経験することのできない、ということでいえばこれもひとつの非日常といって差し支えない。
 仕事に戻った女主人を除いては、しばらくの間、誰もがこの場所に留まり続けていた。夢にも似たこの時間が、覚めてしまうのを惜しむように。いつもより珈琲の減りがゆるやかなのは、きっと時の流れがゆるやかだったからだろう。

 忙しい日常の中にあっても、時にはそんな日常を忘れられる非日常があっていい。
 この場所は、思いがけず非日常に身を置く機会をくれる――。
 とある、夏の終わりの日のことだった。


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