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気ままに生きてる話

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日常でふと考えたこととか、ちょっとした生き方めいた話とか。
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#note

去った弥生を振り返る

 ふと気がついたらもう4月になっていた。ウソだろちょっと前まで雪降ってたじゃん、まだ気分としては2月の後半くらいだよ、なんて無茶な嘆き方をしてみても年が明けてからはや3カ月、一年のだいたい25%が過去の彼方に消え去ってしまったのは紛れもない事実で、ここからチキューの動きを止めたり公転軌道を遡ったりもできない。なんなら今年はうるう年であるから例年よりも一日多かったはずだのに、時が過ぎていくのはやっぱり早い。  相も変わらずそんなに大したことはしてないしこのnoteにもそれほど

半無自覚のルーティーン

 さて日々の習慣と言われて何が思い浮かぶだろう。毎朝のラジオ体操第一もそうだし、月に一度は近くの神社で手を合わせてみたりだとか、ちょっと前に書いたトイレ掃除の話なんかも、それを定期的に行っているという点では習慣だと表せなくもない。あとは『夜寝て朝起きる』というのも、ある程度の期間それができない状態が続いた身にとっては大変ありがたい健康的習慣だと述べておきたい。当たり前と思われる行為も実は習慣のひとつではないか、という観点から言うなれば最たるものはやはり呼吸だろう、寝ても覚めて

なるべくエッセイスト

 noteを再開してからというもの、日々こうしてエッセイ『的』なものを書いている。はっきりきっぱり『エッセイ』と言わずにあくまで『エッセイ的』と表現するのは、エッセイ、つまり随筆というものを、深く勉強したことがないからだ。基本となる形式、作法、あるいは技術といったもの、要は『これがエッセイを真にエッセイたらしめるモノである!』みたいな確たるモノがないままに、最初から最後まで気の向くままに書き連ねている。  それほど勉強したことがない、というのも考えてみれば当然で、もともとは

サラダと唐揚げ

『人との関りが薄いタイプですね』  たまたま市内に来ていた高島易断の占い師にそう告げられたのはまだ二十代だった頃、人生にもっとも迷い悩んでいた時だ。  少々肩を落としはしたものの、それならそれで『今、縁のある人とできるだけ長く付き合っていこう』と思うことにして、それからもう十数年が過ぎた。  その選択が別段、間違っていたという風には思わないし、今現在こうして生きているンだから大いに成功と評して問題ないはずだ。しかしながらこの十余年で『何が変わったか?』と自問したとき、結局の