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気ままに生きてる話

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日常でふと考えたこととか、ちょっとした生き方めいた話とか。
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2020年9月の記事一覧

一周年であるッ!!

 一周年! 一周年だよ!! 誰が何と言おうと事実は事実として時は流れ一周年がやってきたのだよ!! 何がって? 自著だよ!  奥付の日付は15日になっているけど、店頭に並び始めたのは今日この日9月1日であるから今日が一周年なのである。ついでに15日は15日で奥付一周年ということにすればよかろうなのだァァァァ!!  発刊までの経緯と作業工程については『筆風録』で語るとして、出来上がってからは苦労があったわけでなく、ほぼあんまり何も起こらなかったというのがホントのところである! 

ココロの持ちよう

 なんかこう、プラス思考まっしぐらでひたすら耳ざわりのいい言葉を並べ立てるポジティブ説教みたいなこともできないではないけれど、そういうのは他の人に任せて、ここではもうちょっとゆるやかに、のんびりと構えて話をしたいと思っている。泰然自若。  人生それなりに辛く、それでいて月並みな不運不幸に見舞われてハムレットみたいな問答を繰り返した時期もあったわけだけど、ま、とりあえず何とかなってきたと言えるんだろう。今こうやって生きているし。  あきらめなければ何とかなる、とは究極のところ

いつまで青春を謳歌するか

 キラキラ輝く夢や希望、それを語る言葉。強烈で華美な刺激、燃えたぎる情熱。そういうものから一定の距離を置くようになったのは、いつからだったろう。  若いうちはそれでも良かった。それしか知らなかったと言い替えてもいい。理想とする未来に、どこまでも邁進していけると、誰もが信じていただろう。テレビの画面やニュース記事で取り上げられる仄暗いニュースは、自分にはそれほど関係ないと。  では、歳を重ねてみて、どうか。  自分の意思だけではどうにもできないことだってある。描いた理想に進む

言葉は伝わりにくいものだから

 ちょっとだけ損をしているなあ、と思う。『言葉』という表現方法を選んだことについて。  ノベリストであることがイヤだとか、後悔しているという話ではない。  ではどういうことかというと、絵や音楽の場合にはそれを見たり、聞いたりした『一瞬』である程度の良し悪しや、合う合わないが『直感的に』伝わるのに対して、小説などの『言葉』を用いて表現される芸術・作品、そこに内包された感性や主張は、『読む』という工程を経なければ伝わらない。難解なテーマ、技巧を凝らした表現などの場合はもう一歩踏み

うれしがり

 私はノベリストであるが著書はまだひとつしかないので、その本の評価や売り上げというのはどうしたって気になる、というのが正直なところだ。実績があるほうが次の展開に繋がりやすいし、単純に気分がいい。ついつい数日おきにamazonの商品ページをチェックするクセがついてしまって、文豪への道のりはまだまだ遠いな、などと思いつつ今日もまた眺めていたのだけど。  驚いたことに、今日はいつもとは違う、ランキング順位の上がり下がり以外のところで変化がおきていた。 これだ!  なんと、星が!

何でもない日

 そのうち何か書くこと閃くかなあと期待したけど何も思いつかなかった。ま、そういう日もあるね。あはは。  ここのところはnoteの更新についつい時間を割いてしまって就寝が遅くなりがちだったから、時々は気持ちを落ち着けて夜長を過ごすのもいいだろう。特別に熱のこもった文章を綴っているわけでないといえ、作業中は集中しているしアタマも働きっぱなし、最近は慣れたとはいえ労働の後にさらにそんな時間を確保しているのだから、知らずのうちに疲れていてもそれほどおかしくはないし。  今日は天気

心に熱を

 ここしばらく、のんびり、とか自分のペースで、といった生き方論をいくつか書いているけど……。  熱のこもった言葉、そういった態度、いわゆるアツい気持ち、というのがキライなわけではない。ただ、あんまりしょっちゅう『アツさ』に触れてばかりいると、ちょっと疲れてしまう、というだけで。ああでも、暑苦しさというか、体育会系のノリは苦手かな。  無理せず自分のペースで、というのは大事なことではあるけれど、気持ちが穏やかになりすぎてしまうと、自覚のないまま緩やかに静けさの海に沈んでしまう

今ある幸せを大切にする

 ここ何年か続けて買っている占い本、一年の傾向とともに、ひと月、一日単位でのアドバイスが載っている。で、今日の日付のところにはこんなことが書いてあった。 大きな変化を求めて動き回るよりも、いまある幸せに気付くほうが先決。  今月ちゃんと、変化はあった。このままの流れでさらに上へ上へと、他の人と比べると、まだまだ少ない方だからと、ついそう思ってしまいがちだけれど。  ここまでの間に積みあがってきたもの、私を支えてくれた、生かしてくれた人たち……それらも、すべてが『しあわせ』

まあ、なんとかなるんじゃない?

 義理の父親が(ちゃんと病院で処方してもらっていた)クスリを過剰に飲んでトチ狂った挙句に模造刀持って暴れて、ウチにケーサツが来たことはあるかい? 私はあるよ。十代後半、世間一般では多感なオトシゴロとか言われているぐらいの年の頃の話だ。もう二十年ほど前の話になる。  三交代勤務の仕事にだんだんついていけなくなって心身のバランスを崩して退職、一年ほど無気力な時間を過ごすうち会話の時に言葉がつっかえそうになって社会復帰しないと真剣にまずいと思ったのが十三年か四年くらい前のことだっ

そいつは本当に小さいのかい

 ふとした喜び、楽しさ、うれしさ、やさしさ。日常の中でぽつぽつと出会うそれらを、人はよく『小さな幸せ』なんて言ったりする。  ちょっとした偶然、ちょっとした気遣い、ちょっとした巡り合わせ、などがもたらしてくれる、ちょっとした幸せ。気分をほんのり上向きにさせてくれる出来事。なるほどセンセーショナルな感動や悦楽をともなうものでないなら、確かに『大きな』幸せではないのかもしれない。  けれど、それらのちょっとした幸せを感じるために用意された『現実』という舞台は、実に繊細かつ緻密に