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高円寺が好きだ

今日うれしかったこと。
・起きてすぐに恋人と電話した(都知事選やマイノリティなどについて話す。朝からテーマが重い)。
・メイクをしたら普段よりかわいくなれた(なんと5日ぶり)。
・近所の図書館で本をたくさん借りた(背伸びした本、2冊ほどあり)。
・喫茶店でたのんだプリンがおいしかった(添えられたホイップクリームがこれまた絶品)。
・スーパーで割引のお寿司を買えた(今日はお寿司と決めていたのでラッキー)。
・コンビニでチャットモンチーが流れていた(「ハテナ」という好きな曲)。
・冷蔵庫におうち居酒屋セットがスタンバイしている(これからポテトチーズもちを作る)。
・一日じゅうハッピーな気持ちでいられた(なにより)。

高円寺というのはどこか記号的な町だなあと感じていて、それはサブカルファッションに身を包んだ古着ラバーだったり、高架下で弾き語りをするミュージシャンだったり、大衆居酒屋をはしごする酒飲みだったり、はたまたいろんなカルチャーに広く深く精通している生粋のオシャレ人間だったりもする。

それゆえに「高円寺が好きだ」と大っぴらに言うことは、そういった人種のみに与えられた権利のような気がしていた。
住居を構えてはいるけれど、そのいずれにも当てはまらないわたしはこれまでなんとなく、そんな人たちに対して引け目を感じている部分があった。

しかし、今日とていつものように、きりもない飲食店の立て看板を冷やかしながら商店街を歩いていると、もう辛抱たまらん気持ちになった。

わたし、この町がどうしようもなく好きだ。

めいっぱい着飾った若者、いかにも高円寺らしい古着スタイルの若者、肩の力が抜けたような空気感のカップル、地元民感あふれるリラックススタイルのお兄さん、マイペースに闊歩するおばあちゃん、片時もじっとしていない子どもたちを連れた夫婦。

ありとあらゆる年代や関係性の人たちが、色とりどりの景色となって、にぎわいの中に溶けてゆく。誰一人として、そこからはみ出してはいない。
活気と許容に満ちた空気に包まれて、きっと自分も彼らの景色の一部となっているのだろう。こちらに注意を払う人はおらず、誰かと比較されることも品定めされることも土足で踏み入られることもなく、そのことがものすごく心地よい。
なんて息がしやすいんだろう。なんて、なんて居心地がいいんだろう。

飲み屋にもカフェにも詳しくないし、そこかしこに知り合いがいるわけでもない。古着はあんまり着なくなったし、週末に徘徊するのはきまって同じルートばかり。
そんなわたしでも、高円寺が好きだと胸を張ってもいいだろうか。

いいのだ、と思った。
居住1年3ヶ月めにして、今日ようやく心からそう思うことができた。こんなわたしでも好きだと胸を張れるからこそ、きっとわたしはこの町が好きなのだ。

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