親の心子知らず。そして、ありがとう
先週、弾丸で愛知県に帰省した。
骨折、入院してしまっていた祖母快気祝い。
今回は北海道から弟も参加。
私も弟もそれぞれ単身での帰省だったから
家族全員集合。
それもちびっ子抜き。
こんなのいつ以来だろうか?
家族水入らずとは言え
そんなにゆっくりできるわけでもなく
バタバタと時間は過ぎていったのだが
ひとつだけ。
ひとつだけ
とても印象に残っている話があるので
ココに記録として残しておきたい。
母が言った。
「母さん、早くに2人(私と弟)とも家から出しちゃったから
ひどい母親だな〜ってずっと思っていたの。」
そんな風に思っていたなんて
これっぽっちも思っていなかった。
***
私の田舎は、
本当にド田舎だ。
今でこそ両親は
愛知県の母方の祖母と一緒に暮らしているが
ほんの13年前までは
北海道で酪農を営んでいた。
当時は人口1600人弱の小さな村で
小中学校学校に通うのはスクールバス。
たまに歩くこともあったけれど
自転車で行くこともあったけど
基本バスで通っていた。
最寄り駅も遠い。
なんなら無人駅だったし。
電車(JRのこと。北海道では汽車って呼ぶ)も
1時間に1本あればいいほう。
地元に高校はなく
となり町まで汽車で通う必要がある。
そんな場所。
あまりに田舎過ぎて
私はずっと好きになれなかった。
小中学校の同級生は
毎年一緒。
常に同じでクラス替えなどない。
だって、中学時代、11人のクラスだったし。
そんな中でハブにされたらたまったもんじゃない。
が、中学生の頃
11人しかいないクラスの中で
女子は、私を含めたった4人しかいないのに
私は彼女たちとはうまく付き合えなかった。
ま、ゲーム好きだったし
男子との方が話も合うから
そこまできつい思いはしなかったけれど。
でも、このメンバーの大部分が進学する
となり町の高校へは行きたくない、というのが本音だった。
母とはそんな話もしていた。
高校生になったら
部活にも打ち込みたかった。
となり町の高校へ進学すると
最寄り駅までの送迎や
練習試合なんかに行くときにも
両親に迷惑をかけることになる。
当時酪農を営んでいた両親にとって
子どもの送迎はとても負担になる。
本人たちもそのように常に話していたっけ。
だから私は(のちに弟も)
学区外の高校を受験し
下宿して通っていた。
私も弟も
中学卒業と同時に家を出ているのだ。
コレは余談だけど…
実は高校受験の際
「本気で取り組め!」という父の方針で
滑り止めも受験させてもらえなかった。
第一志望の高校に合格できて
本当に良かった…
そんな早くから私たちに
家を離れさせる選択をさせたことを
母はずっと悔やんでいたらしい。
自分はダメな母親だ、と。
知らなかった。
そんなことを思っていたなんて。
確かに当時は大変だったし
正直寂しい思いもした。
入学式にも親は不在。
学校行事にも来ることはなかった。
2歳差の弟とは同じ高校に通っていたので
1年間だけ在籍期間が重なっている。
でも下宿先は別々だった。
長期休みには帰っていたけれど
基本的にはそれぞれの下宿先で過ごす日々。
寂しい日もあったが
自分の事は自分でしなければならず
この期間にいろんなことができるようになったと思う。
今振り返ってみれば。
家を出る前も、
共働きでなおかつ決まった休みのない両親の
手伝いはマストだった。
私は夕食の準備、弟は牛舎の牛の世話。
嫌々やっていた。
大人になった今
(大人になって〇十年経ってるけども)
早くに実家を出たことは
多くの経験を積むことができたし
感謝の気持ちしかない。
「ちゃんとしなきゃ」って自覚が芽生えたし
早い段階で交友関係も広がった。
部活もやりたいことを目一杯やれた。
田舎過ぎる地元の話が
とびっきりのネタになった。
(↑コレはまた追い追い書きたいって思う)
だからね、
周りの友人たちに比べたら
早い段階で実家を離れたけれど
あれはベストな選択だったと思える。
それを今回の帰省で
私も弟も伝えることができた。
いちばん大きな収穫物というか
とても大切なことを伝えられたなって思う。
だから、ココに記録しておく。
***
あ、そうそう。
おばあちゃんの話も残しておかないと。
今年94歳を迎える祖母は
2月に自転車から降りようとして転倒し
骨盤を骨折してしまった。
4月末には無事に退院。
今は歩行器なしで歩けて
ピンピンしている。
帰省したときに
私も弟も「本当に入院してたの?」と漏らすほど
めちゃ元気。
病気で入院していたわけではないので
当たり前と言えば当たり前かもしれないけれど
それでもまったく年齢を感じさせない。
おばあちゃん、元気に退院できて本当に良かった。
次はいつ、会えるかな。
今度は子どもたちも連れて
会いに行くね。
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