わたしのランドセルものがたり
友人が来年入学するお子さんのランドセルを選んでいるという。
そこのことでにわかに思い出したのが、16年も前の話。
息子にランドセルを買ってくれるという義理の母。
有名デパートのレストランで食事をし、そのままランドセルの売り場へ。
繰り広げられる絵にかいたような光景。
「どれでも好きなものを選んでいいわよ」
義母は心からそう言っている。今、行き場のない母性本能を持て余す、息子が一人立ちした私にはそれが分かる。
しかし、新1年生を持つ母の頭はいろいろな計算をし始めていた。
まだ体が小さいのだから、軽いものが良いのではないか?
その場の雰囲気で奇抜な色を選んだらどうしよう。
まさかまさかのキャラクターものはないな。うん、ないな。
男の子なんだし、耐久性に優れたものの方がいいのではないだろうか。
しかし私は普段、教育者として、こんな言葉を保護者に話してきた。
子どもは、自分で決めたことには責任を持つもの。
親が口出しをしてはいけませんよ。
そこで私はのど元に寸でのところまで上がってきている言葉らを飲み込む。
息子が選んだのは、スポーツメーカーのランドセルだった。俊敏そうな山猫のマーク。中にはタータンチェックの布が貼ってある。
これがいい!絶対これがいい!
そのマークのメーカーを知らない息子には、心のそこからその山猫が素敵に見えたに違いない。
しかし、かなりの高級品だった。
「おばあちゃん、ありがとう。ぼく、大切にするよ。」
判で押したようなお礼を言った息子だが、彼は、本当にランドセルを大事に扱った。
同級生がランドセルにまたがり、滑り台を降りたり、
サッカーボールのごとく蹴って遊んだりする中、
彼はランドセルをものすごく綺麗に使った。
6年間使っても傷一つなく、卒業時に、学校で集めて発展途上国に寄付する際、あまりに綺麗なランドセルを保護者が間引きしようとした事件もあったくらいだ。もう時効だろうから話すけれど、あの時は、息子の綺麗なランドセルを、醜い考えで間引く人が許せなかった。が、「あまりに綺麗なので、次男坊に」そう思う気持ちも分からなくもない。
今、そのランドセルはどこかの国の誰かが、いろいろなものを運ぶのに大切に使ってくれていると信じている。
彼は、今でもあの素敵なランドセルのことを口にすることがある。
今年は新型コロナの影響で、ランドセルも春の風を受けることがなかった。
夏服の入学式だった学校もあると聞く。
物の価値を考える春を過ごした親子は、来春、どんなランドセルを選んでいくのだろう。
そしてあのとき、私が余計なことを言わなかったことが、どんなに今の私をホッとさせていることか。
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