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聴者には見えない助詞

国語の教材を作成した時、それを売って欲しいと、ろう学校から申し出があった。
「耳が聞こえない子供にも使えそうなんです」
かなり前の話だ。

やっとの思いで教材を作り終えたばかりの私は「ケチ」だった。相手がろう学校なら、差し上げても良かったのにと思える。結局、その学校に教材を売り、その後交流もない。

月日は流れ、先日、とある動画に出会った。学校の教室で表情豊かに話す子供たち。あふれる笑顔にこちらの顔もほころぶ。彼らは手話を使って生き生きとコミュニケーションを取っていたのだ。声がないのにとても賑やかだ。

ろうの子供でも、こんなに生き生きしている、手話ってすごい。呑気な感想を述べた私に、
「こちらの世界へようこそ」
盲学校に勤めている友人が、そう言って一冊の本を紹介してくれた。

『手話を生きる』斉藤 道雄 (著)

手話「」生きるとは何だ? 少し違和感を覚えた。手話「」ではないのか?

この本によると、日本の手話には、日本語対応手話と日本手話があり、言語学的に言えば、この二つは違う言語だという。日本語対応手話は、文法が日本語と同じなので、聴者には都合が良い。日本語を文節ごとに手の動きで表す。つまり、音声言語、文字言語と同じ構文だ。
例えば、日本語対応手話では、疑問文を作る場合、「〇〇です」と手話で表したあと、手の平を相手に突き出し「か?」とする。「〇〇」+「です」+「か?」は別の手の動きをするわけだ。
ところが、日本手話では、非手指動作が加わる。文末で、眉をあげるのだ。つまり疑問形であることを眉で表現している。この手話は、もともとろう者の間に存在していた手話だという。

暗い歴史もあったそうだ。日本のろう学校は、ろう児に対し、聴者に無理矢理近づけようとしてきた。ろう教育は100年ものあいだ、聞こえない子はできるだけ音を聞けるように努力しろという構図で、唇の動きを読む「読唇」や、話せない言葉を何とか話させる「発語」での教育をしてきたのだ。学校では、手話を禁止。手を使えないようにするための体罰もあったそうだ。

「あなたはそのままではいけない」

多様性という言葉が存在しなかった時代のこと。ろう学校に対し

「楽しい思い出というのが、まったくないんです」

当たり前である。

人から言葉を奪うということは、単に表現に制限をかけるだけではない。考え、思考する権利、アイデンティティを奪う。そこにも国語教師として見逃せない事実があった。手話を禁じられたその結果、ろう者は「思考ツール」としての言語を失うというのだ。

言葉には「表現ツール」としての役割と「思考ツール」としての役割がある。私が教師として指導するのは「表現」の方だ。どうしたら相手に分かりやすく伝わるか、誤解なく、豊かに伝わるか。しかし最近、大人の受講生から指導の感想を聞けるようになった。
「新しく知った言葉を使うと、微妙な物足りなさがなくなった」
「言葉をきちんと選ぶと、論理自体が自立するようだ」
言語化にはそういう副産物があるようだ。今まで子供たちはこういうことを言語化してくれなかった。いや、そういう成長そのものが子供たちにとっては、普通のことなのかもしれないが。大人からの感想で、私は言語の持つもう一つのパワーに気づき、以降、「表現ツール」「思考ツール」の両方を教えている。

もう一つ、セミリンガル問題というのもある。日本語を十分に獲得していない小さい頃から外国語を使うと、どちらの言語でも児童レベルまでのことしか話せない人になってしまうという問題だ。もちろん、早期外国語教育を受けた人が全員そうなるわけではない。時には両方の言葉を使いこなし、両国の架け橋になるような職業に就く人もいる。しかし、家庭の社会的地位などに因果関係があるという意見もある。

ろう児も同じだ。特に乳幼児期に手話を持たない子供は、思考ツールとしての言語を持たない。その後10歳程度の学力でとどまってしまうのだそうだ。これは日本だけのデータではない。それはそうだろう。人間は学習言語を習う前からずっと、周囲の言葉を聞いて育つ。文字なんて分からない頃から言葉は頭の中で使っているのだ。

手話で話せばいくらでも話せるし、自分の考えが深まっていくことがわかるんですけれども、口話で話しているとどうも自分の考えが浅くなり、表面的な会話になってしまって、どうしたらよいものかと悩んでいました。

習いたての外国語を使い、日常会話やビジネスの話はできても、哲学や思想の話が難しいということを想像してもらうと分かりやすい。そして、言葉による思考の整理は、朧気な納得を確信に変え、あやふやな意見を信念に昇華させる

この本を読んで、まず母国語を持つべきだと強く確信した。他言語の習得はそれからでも十分間に合う。日本語手話を授業に取り入れ、今まで静かだった教室が、生き生きと蘇った。明晴学園の取り組みと、生き返るろう教育を読み、聴者である私にも聞こえなかったものが聞こえるようになった。『手話を生きる』の「を」の意味だ。

明晴学園の卒業生が後輩のろう児に贈る言葉が「手話を生きること」だった。手話通訳は「手話『で』ですか?」と聞いている。しかし彼の決然とした雰囲気は変わらない。「手話を大切にすることですか?」という質問に対しても、不満げな様子。
〈手話〉と〈生きる〉のあいだに、ろう者独特のうなづきと視線がある。もう、ろう者にしか通じない「助詞」がそこに存在するのだ。それを私たち聴者が使う日本語の助詞の中から選ぶとしたら、けして「で」ではなく、せいぜい「を」なのだろう。もしかしたら、私たちの助詞の方が乏しいのかもしれないとさえ思う。

いったん聴者の世界に入れば、手話を生きることは難しい。手話を見るだけで逃げる人もいる。災害時に聞こえない為に被害に遭うこともあるだろう。NHKの調査では、2011年の東日本大震災では、障害者手帳を持つ人の死亡率は、全住民の死亡率の2倍に上ったそうだ。

「ろう学校になら、私の教材を提供してもいいわ」そんなおごり高ぶった考えは、この助詞ひとつで粉砕された。出直しだ。良い本に出会った。感謝。

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