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「大変だったの」と話しかけてくる人に対して「私もそうだったよ」と言ってはいけない。

先日、Amazonで映画を見た。
『護られなかった者たちへ』
監督:瀬々敬久
出演:佐藤健, 阿部寛, 清原果耶

全身を縛られたまま“餓死”させられるという不可解な連続殺人事件が発生。捜査線上に浮かび上がったのは、過去に起こした事件で服役し、出所したばかりの利根という男。刑事の笘篠は利根を追い詰めていくが、決定的な確証がつかめないまま、第三の事件が起きようとしていた―。なぜ、このような無残な殺し方をしたのか?利根の過去に何があったのか?さまざまな想いが交錯する中、やがて事件の裏に隠された、切なくも衝撃の真実が明らかになっていく―

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この映画は、東日本大震災と生活保護という二つの大きな社会問題を組み合わせた背景になっている。
その中、震災で大変だったことを語られるシーンで、家族を亡くしている刑事役の阿部寛が、自分の被害を語らない印象的なシーンがある。

誰かが相談を持ちかけてきた時、「私もその経験がある」とマウントする人がいる。私も時々そうしてしまう。でもそれって、とても危険なこともじゃないか。
例えば「この前道で転んで大変だったの」という人に「私も転んだことがある」とマウント。「この前、調子が悪くて病院に行ったらストレスだと言われたの」という話に対して「私もこの前そうだったの」とマウント。
特に、その人よりもひどい話(に見える)の時には、話したくなる気持ちは分かる。

私は「転ぶ」に関してはいくつもネタがある。←自慢すな
ストレスも、みんな持っているから、自分も聞いてもらいたいくらいなはず。

そんな感じで、その人と似た点、接点を発見した途端に、マウントする危険性ついて、この映画を観た時にあらためて感じた。

怪我や病気、そして苦労の話ならなおさらだ。

全く同じ状況で、しかも相手からアドバイスを求められた場合は、話は別。介護を始めたばかりの人が、いつも介護をしているけれど楽しそうに過ごしている友人がいれば、その秘訣を聞きたいだろう。
同じ病気で社会復帰した人がいれば、例え個別性が高くても、その方法を聞きたいかもしれない。

この映画では、登場人物が全員苦労している。
震災で家族を亡くした人、家を流された人、行方不明の家族を探し続ける人、その人たちの悲しみや怒りをぶつけられながらも粛々と仕事をする公務員、人様に迷惑をかけてはいけないと生活保護申請できない老人……。

震災の苦労を言い合う仲で、最愛の奥様を無残な遺体で確認し、お子さんは行方不明のままという刑事は、そのことでマウントしなかった。「僕だって辛いんです」と言わなかった。
そうすることで、その人の苦労を認め、その人がもっとその苦労について話せるようにした。
苦労の比べっこなら、刑事の勝ちだったのに。

「大変だったの」と話しかけてくれる人に対して「私もそうだったのよ」と言ってはいけない。まず、その人の今の大変さを聞くこと。それこそが、先に苦労を経験した人間の役割ではないだろうか。

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