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罰は誰に当たるのか

何か悪いことが立て続けに起きた時、私はいつも「警告」と受け取る。事故が続く、病気になる人が続く。それは「あなた、気をつけなさいよ」という警告。なので、気を付ければ、大事にはならないと思っている。

ところが、世代の違いか、母はそういう時に「罰が当たる」と受け取る。

週末、認知症の父をショートステイに預けた。それは家族で話し合い、必要なことだと決めたこと。毎週末、ヘルパー不足を補うため、妹と私でかわるがわる実家に行くが、そのことを、父が(認知症だけど)快く思っていない。おむつ替えも嫌がる。もちろん認知症なので「いやだ」とは言わない。でも行動に出る。毎週交代で帰るのも大変、父に嫌がられるのも大変。じゃあ、福祉の力を借りようよってことになった。どこにでもある普通の話。

その間、特に母は遊び惚けたわけでもないのに、ショートステイから戻ってきた父が、ちょっと普段と違う荒っぽい行動を取っただけで「罰が当たった」と表現した。ちょっと声を張っただけだけど。

私は、因果応報は信じているが、父の荒っぽい行動の原因は「母」ではない。普段と違う環境で2,3日過ごしたので、脳が覚醒してしまっただけだ。原因は「ショート」で結果は「興奮」。母はむしろ全く関係ない。

そういえば、父が認知症だと分かったころ、母は「私は両親の介護をしていないから、罰が当たった」と表現していた。それも違う。「両親の介護」と「認知症」には全く因果関係がない。関係がないものを天のせいにしている方がヤバいと私は思う。

罰は悪行を重ねている人に起こる天罰?
そうでもない。逆を考えたら分かる。
善行を重ねている人にも不幸は訪れる。

つまり、こういうことは、神様のせいにしちゃいけないのだ。きっと。

やはり私には「警告」だ。何をすべきなのか、考えないといけない。

って、この思考癖もおかしい?

皆さんはどう思います?

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