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宝塚から数々のキャリアチェンジで実現したかったものとは・・・【MY STORY #1】

(*この記事は、2021年3月に再編集しました。)

1996年3月、兵庫県宝塚市。
宝塚音楽学校の合格発表で、私の本名を見つけたときの衝撃の喜びの瞬間。
ここから、私のキャリアは始まりました。

(偶然なことに、この記事を書き直している今日も、2021年度の音楽学校合格発表がありました。嬉しさの涙を流しきったその日が、昨日のことのように記憶に蘇ります。)

当時18歳。高校を卒業して数日後のことでした。
これまで2回の受験に挑戦し、1回目は失敗、2回目で夢のステージに立つ切符を手に入れることができたのです。

それから、男役の道を目指して2年間の学校での修行を経て、宝塚歌劇団の男役として7年間の舞台人生を送りました。


宝塚といえば、日本人ならおそらく誰もが知っている、女性だけの劇団。華やかな大舞台。選ばれし人間が集まる憧れの場所。そんな場所で、人生初のキャリアをスタートさせることができたのは、なんという幸運だったのでしょうか・・・

しかし、そんな喜びと自信で溢れる胸の片隅には、常に競争の世界ならではのプレッシャーや、人と比べられ、自分への物足りなさゆえの焦燥感にかられる毎日でした。

宝塚では、皆さんもご存知のように、年功序列の縦の厳しさの上に、横並びの同期生の中でも成績をつけられ、常にその順位で並べられるのです。(*スターさんのポジションや役付けなど、一部順位にかかわらないこともありますが。)

そんな競争の世界で、タカラジェンヌである誇りを胸にする反面、人と比べて自信を失ってしまい、いわゆる「自己肯定感」の低いタカラジェンヌとして過ごすようになった私でした。


毎日舞台に立てるのは、幸せ。目の前の役割に必死にとりくみ、憧れの先輩をロールモデルに、男役として羽ばたく夢を持ち、鏡の向こうの自分に向き合う日々・・・

素敵な役をいただいたり、入りたいチームに入れた時の喜び、そしてお客様から感動の声やファンレターをいただけた時の喜びは、代え難いものでした。

でも、「自己肯定感」の低さが、「私は男役スターになれる!」「舞台の中心で踊れるようになれる!」なんて高い夢や望みを描けない、低い低い、セルフ・イメージを自分の中に焼き付けてしまったのでしょう・・・

(当時はそんな自分の思考状態も客観的に認識できなかったので、余計に苦しかったものです^^;)

そんな思考だったからでしょうか。

宝塚人生、自分の思うような道が拓けず、うまくいかなくなってしまいました。


きっかけは、ここからです。

がんばっているつもりだったのに、入団3年目の試験で成績がズド〜ンと落ちてしまった・・・

これを機に、特別公演から外されたり、出番が少なくなってしまうことが度々重なりました。

何の説明もなく、それは「香盤表(出演者出番表)」という紙切れ一枚の掲示から無言でメスを突き刺されたようでした。

「この世界で私は必要とされていないんだな」
「男役としての活躍の可能性はもうないのか・・・」

と胸を痛めては、タカラジェンヌとしてのキャリアへ自信を喪失し、夜な夜な涙する日々でした。


「くやしい」「私だってがんばっている」「なんで私じゃだめなのか」

そんなダークな思いにかられながら、胸の思いをストレートに吐き出すことを、「タカラジェンヌという夢の存在」である自分自身が許さなかったこと。苦しみを人に打ち明けられなかったこと。

それが余計に、「男役としてこれからどう進むべき?」という問いに、スランプを起こしてしまいました。

出番の多い仲間を羨ましく眺めては、

「今日は私お稽古少ないし、早く帰れる!」「お休みができてラッキー!」

なんて、自虐さえも言えない私。

「出番がなくてくやしい!!」

て、言ってしまえばいいのに。

それもできずに、ただただひっそりと、自分の出番の練習や人の演技の観察を続けるだけでした。

宝塚が大好きだったけれど、そこで思うように活躍できない寂しさ、挫折感。胸の思いを吐けない孤独感。

そんな辛さにも耐えながら、でもやっぱり大好きな舞台で輝きたい!私でしかできない男役になる!そう思って、舞台の上でお客様に精一杯の笑顔を送りながら、歯をくいしばりつづける、20代前半の私でした。


そんな、どん底の闇から、心と体のバランスの極限も感じながら、お客様に夢を与えるために、ひらすら努力を厭わず走り続ける、タカラジェンヌという職業。一度やめたらもう決して戻れない職業。

落ちるところまで落ちきって、やがて、そんな経験をできることへの感謝の思いへと少しずつ息を吹き返していきながら、男役としても中堅の学年になってきた頃には、芝居の醍醐味もわかるようになり、舞台に立つ楽しさようやく理解できるようになりました・・・

ところがある時、再びこんな出来事がやってきました。


次なる複数公演、どっちに出られるんだろう?と、皆がワクワクしていた時に、いよいよ貼り出された香盤表・・・

なぜか、近い学年や同期で一人だけ、私の名前がありませんでした。


再びの厳しい無言の通達に、しばらくショック状態だった私です。

ところが、帰宅してふと息を吐いた瞬間、もう一人の自分から突然のエールが聞こえてきたのです。

「ねえ、そろそろちがう世界に目を向けてみたら?」
「十分にがんばったよ。もしかしたら、私にできることは、外にもたくさんあるかもしれないよ?」

そんなハッとする声でした。
突然の心の声に、急に肩の力が抜けた瞬間でした。

「あ・・・そうか・・・そんな時機なのかもしれないな・・・」
「これって、また自分へのチャレンジをする機会なのな?」

逆境から背中を押してくれる自分自身の声に、

「あれ?自分てこんな強さ持ってたんだ?」

と、なんだか希望の光が射した瞬間でした。

「宝塚卒業」という決心をしたのは、この時。26歳の頃のことでした。


そこから、私の人生の第二幕への挑戦がまた始まりました。

思い切って、退団を決意することができた!でも、第二の人生、いったい私は何をしたらいいんだろうか?

夢の世界での光と陰。暖かさと厳しさに身を晒し、成長させてもらった経験が、私の中にある。

だけど、歌って踊って芝居する以外に、私ができることって何?いったい、何をしたらいいの?

まったく先が想像できず、何も決められず・・・

でも前に進みたいという気持ちのエネルギーだけは増す日々。

休演日に街中に出かけては、舞台では巡り合わない、私からすると"非日常"の人々を見て、

「これから私はこの"非日常"の中に飛び込み、"日常"として生きるのか・・・」

と、不思議な気持ちで卒業までの時を迎えます。


結局、私が選んだ道は、「まず大学にいって、いろんな人と接触し、いろんな学びを得ること。」でした。

そこから、自分が興味湧くものやセカンドキャリアへにつながる道が見つけられたら!と。

10年近く、学問という道から離れていた私にとっては、大いなる挑戦でしたが、「これから何が起こるかわからない!でも確実に、胸はドキドキしている。」そんな新しい自分に出会えたことは、小さな喜びでした。

立ち止まってられない!
次の人生、ぜったい輝かせてみせる!

勇気をふりしぼり前に進む自分を、「なんか少し成長したな」と逞しさを感じる思いと、

劇団での貴重な体験をできたことへ感謝の念と、
仲間から離れる寂しさと・・・

そして、男役として思うような活躍を成し遂げられなかったかすかな心残りを胸に、春の退団公演千秋楽を迎えたのでした。


〜MY STORY #2につづきます〜


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