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国連機とアフガニスタンの正月

これまで世界中色々な国々でお正月を過ごしてきた中で、一番好きな場所をあげるなら、日本。

国連職員として17年間海外勤務だったが、お正月だけは出来るだけ帰国するようにしていた。むろん毎回帰国できるわけではなく、仕事の都合や、上司の休暇との兼ね合いで、現地に残ることもあった。

一番記憶に残るのは、アフガニスタンの首都カブールで過ごした2005年のお正月だ。アフガニスタンは中央アジアのタジキスタンの南、パキスタンの北に位置する。

当時私はタジキスタンの首都ドシャンベに駐在していて、クリスマスとお正月はタジキスタンで過ごす予定だった。

それがなぜ、アフガニスタンで年越しをする羽目に陥ったのか?
少々前置きが長くなるが、国連で働いていたら、こんなハプニングもあるよね! という気分で軽く読んでみて欲しい。

10数年前、国連職員に許されていたタジキスタンから出国する方法は次の三択。

①陸路(車)で国境を越え、半日かけて北上し、隣国のウズベキスタンの首都タシュケントから国際線に乗る。
②ドシャンべからアエロフロート機で4時間半かけてロシアのモスクワに飛び、さらに2時間位かけてモスクワ市街をタクシーで横断し、シェレメチェボ国際空港から国際線に乗る。
③週に1便しかない国連人道支援航空サービスのフライトで、ドシャンべからアフガニスタンの首都カブールを経由して、パキスタンの首都イスラマバードへ行き、そこから国際線に乗る。

どのルートをとっても、タジキスタンを出るのは半日がかりだった。
タジキスタン航空のフライトで直接ドシャンべから国際線に乗ればこんなに時間もかからなかったが、当時のタジキスタン航空に乗ることは安全性の面から職場で禁止されていた。
だから、上記のような半日がかりのルートで「国外脱出」するしか方法がなかった。

タジキスタン駐在中の3年間でどのルートも試したが、どれも一長一短でエピソードには事欠かない。

中でも一番苦い思い出があったのが、③の「国連機に乗ってアフガニスタン経由でパキスタンから出国ルート」。
その理由は、タジキスタン赴任後、初めての休暇で国外に出る際このルートを選び、機体の故障により、思いがけずアフガニスタンで一泊する羽目に陥ったことがあるから。

全く知り合いもいないアフガニスタンの空港で、あたりが暗くなる頃、故障機を降りてやっと乗り込んだ代替機の中で、クルッと後ろを振り向いたパイロットの放った一言は忘れられない。

「ご覧の通り、暗くなってきています。この機体は視界飛行なので暗い中飛べません。明日の朝再び空港に戻って来て下さい」

その時は、親切な人との出会いがあり、運も味方して、九死に一生を得る経験をしたが、それはまた別の話。

とにかく、一度痛い目を見たにも関わらず、性懲りも無くこのアフガニスタン経由のルートを選んだ理由は、単にフライトのスケジュールの都合だったように思う。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったものだ。
別にモスクワ経由でも、ウズベキスタン経由でもなんとかなっただろうに! と今だから言える。

12月半ば、少し早めの冬休みも兼ねて、ニュージーランドでホストシスターの結婚式に出席した久しぶりに会った高校時代のホストファミリーと楽しい時間を過ごした後、意気揚々とパキスタンから国連機に乗り込んだのはクリスマス前々日だった。
ドシャンベで友達とクリスマス会と新年会を計画していたので、それを楽しみにしていたのだ。
アフガニスタンのカブール空港で、別の国連機(前述と同じビーチクラフトという小型機)に乗り換えて、ドシャンベを目指す、はずだった。

ところが、待てど暮せど搭乗のアナウンスがない。
ついにはフライトがキャンセルになった。
ドシャンべは大雪で、視界も悪く、飛べないし、着陸できないとのこと。

ガーン……。

過去やむなくカブールに一泊した苦い思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、一瞬呆然とした。
このままではクリスマスをカブールで過ごす事になる! と我に帰り、すぐさま交渉し、ちょうどイスラマバードに戻る国連機に乗せてもらう事ができた。

イスラマバードには幸い知人がいたので、ドシャンべでのクリスマス会は逃したけれど、結構楽しいクリスマスを過ごすことができた。
クリスマスの後、最初の国連機のフライトでまたアフガニスタンのカブール空港に降り立った。

またしても、雪の為タジキスタン行きのフライトはキャンセル!
これで1週間のうち2回もキャンセルが続いたわけで、次の振替便は天候の回復次第で明日、明後日にも飛ぶかもしれないと言われる。
再びイスラマバードまで戻ると、次の振替便を逃すかもしれないと思い、そのままカブールで振替便を待つことにした。

勤務先の国連WFPのアフガニスタン事務所の知人に連絡を取り、WFP職員用の宿舎に泊めてもらうことになった。
それからは空港に日参して、振替便を空港内で待つものの、天候不良で飛ばず、がっかりして宿舎に戻る、という日々を繰り返した。

陸路で行けないか、当時の国連WFPの所長に直談判に行ったところ、雪崩の危険がある中車は出せない、と言下に断られた。
まぁ当然の対応だろう。一介の職員のために、ドライバーと車を雪深い山岳地帯に送る必要はない。

なぜそこまで急いでタジキスタンに戻りたかったのかといえば、年間報告書の締め切りを抱えていたからである。

国連には日本の様な年末年始休みはなく、有給を取らない限り、祝日のクリスマス(12月25日)と元旦(1月1日)以外は通常業務だった。
カブールの国連WFP国事務所の空いているデスクとパソコンを貸してもらい、報告書の作成を始めたが、午前中は空港に行っているので、なかなか進まない。

毎回空港に行く度に、空港前の検問と空港内の手荷物チェックで全ての所持品を念入りに調べられる為、その度に開けたり閉めたりするのがストレスだった。さらには、真夏のニュージーランドに行った帰りだったので、冬服は1セットのみ、インナーは毎晩手洗いしていたけれど、着たきりスズメには変わりなく、気分は落ち込む一方。

空港への日参も虚しく、天候が一向に回復しないので、とうとう大晦日と元旦をカブールで過ごすことになってしまった。
当時私が宿泊していた宿舎に残っていたのはロシア系の男性数人。
落ち込んでいる私を宿舎の食堂ではあったけど、祝いの食卓に招いてくれた。

祝いの席では、ウォッカで乾杯! がロシア風である。
レディーにウォッカはあんまりだから、と気を利かせて彼等が出してくれたのは、コニャックだった。
アルコール度数、あまり変わらない気がするけど……と思いつつ、皆さんはウォッカ、私はコニャックで乾杯。
紅白歌合戦ならぬ、ロシアの歌番組を見ながら、ウォッカの勢いもありみんな陽気に歌い、盛り上げてくれた。
心遣いはありがたかったけれど、内心私は落ち込んでいた。
コニャックを啜りながら、チキンを食べ、いつになったら帰れるんだろう、と思っていた。

ようやくドシャンべに帰り着いたのは1月3日。
ドシャンべの滑走路には、着陸に失敗した別の航空機があった。
無事に帰れて良かった……。
毎年お正月にはカブールで過ごしたあの日々を思い出す。
間違いなく、滅多に経験できない年末年始だった。

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後日談

その後、年も明け、天気も回復し、1月3日まで約10日間も滞在したカブールから無事ドシャンべに帰り着いた私に、カブールの事務所から請求書が届いた。

総額700米ドル余りの、職員宿舎の滞在費用の請求である!
まさに、泣きっ面に蜂。

国連専用機は、なんらかの理由で欠航しても、途中で荷物がなくなったりしても、一切保証や払い戻しはない。
国連加盟国や、ドナーからの貴重な募金で運営している国連人道支援航空サービスなので、ギリギリの予算で運営しているのだ。
だから欠航の場合は別の便に振り替えてくれることはあっても、滞在費は払えない。

この時は、気の毒に思ってくれた上司の計らいで、カブール滞在中も仕事をしていたということで、滞在費を補助してもらえたのは有り難かった。

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