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1987 夏 - 2

 ひとりの女子大学生が喫茶店の窓際の席に座り、その店で一番安いアメリカンコーヒーを飲みながら熱心に本を読んでいる。かなり読み古されたその本の背表紙には「肉食主義者と凶暴性」と書かれている。最新のワンレン&ボディコンスタイルに身を包む彼女とそ の古びた本はどう見ても不釣り合いだ。まるでどちらかがタイムマシーンで時代を超えてきたかのように見える。すでに4度は読み返したその本は、同じサークル内の男の子から借りたものだった。
 新歓コンパの時にたまたま隣に座っていた彼は挨拶が済むや否や、突然周りで焼き鳥を貪り食う同サークルの人間たちを見ながら小声で彼女に肉食主義者批判を始めた。最初は訳の分からなかった彼女だが、彼の勢いと利発さにすっかり圧倒され、あっという間に恋に落ちてしまった。何より彼の顔がどストライクだったのだ。熱心に見つめ耳を傾ける彼女にそんなに興味があるならと彼が差し出したのがその本だった。

 半年前まで外食といえば焼肉しか浮かばなかった彼女が、今や野菜か茸類しか口にしない。これまでに食べてきたあらゆる動物性食物がまだ体内に蓄積されたまま残っている気がして、彼女は時々吐き気を覚えさえした。 
「おい、ルドルフ・ヘスが電気コード巻いて首吊り自殺したらしいぞ。ナチスもこれで本当に終わりだな。」
 店内奥のテーブルで大声で話す中年男ふたりの会話が耳に入る。彼女は顔をあげちらりとそちらを見る。
(ドイツ人は肉ばっかり食べていたせいであんな凶悪な奴らができあがっちゃったのよ。おじさんたちも気をつけないとそちら側に回収されちゃうわよ。)
 彼女は気づかれぬように小さく見下した笑みを浮かべ、そして再び本に目線を戻した。

 おじさんふたりがチキンライスと照り焼きステーキ定食を注文したのを合図に彼女は立ち上がり、ふたりの席の目の前にあるレジに向かった。勘定を済ますとタイトルがわざと彼らに見えるようにして本を脇に抱え、ふたりの前を通り過ぎ店を出た。彼女の小さな反抗は届かず、彼らは相変わらず大声で話し続けている。
「他人のことなんて 放っとけってのなあ。てめえひとりでやっとけよってなあ。面倒くせえったらありゃしねえ。」 

 幸運なことに、彼女はナチス幹部が厳格な菜食主義者であったことを知らなかった。愛はあまりにも盲目で、自分の正義が無知のために守られているなどどうして彼女が気付こうか。
 今日も彼女と彼の距離は、肉食主義者を批判することで縮まっていく。

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