愛。なんと率直で、惜しみもなく、溢れている言葉なんだろう。
愛。

愛している。I love you.

伝えれば伝えるほどに近づき、ふとした瞬間に、自分でも気づかない間に突如と遠ざかる。100歩進んだかと思うと、その一瞬がまた元の位置まで引き戻す。そして引き戻された時に気づくのは、その1歩目から100歩がそこにすでにあったということ。
愛は進むものでも、後退するものでもない。
愛はただ、ひたすらに、ただ、愛でしかない。

相手を想っていると思っていても、時に愛に慣れすぎていることを思い知らされる。それは相手を無意識に傷つけた時に知る。そんな時ほど、時間は巻き戻せないのだと、心底後悔する。そうして再び慎重に愛を取り扱い始める。だけど、相手を傷つけないように傷つけないようにと、忍び足な日々は、どこか嘘をついているような心持ちがして、変な後ろめたさを生む。
何が正しいのだろうと立ち止まっていると、自然と相手から距離をとっていることに気づく。
間違っている時ほど、離れてはいけないのだろうと思う。
だけど向き合えば向き合うほどに、溝は深まっていく。
そばにいながら、小さな小さなヒントを集めて、同じ方向を今でも互いがむいているのか。それを確かめていくしかない。

愛し合っているほどに、怒りの矢は大きく鋭くなる。えぐられて息ができなくなっても、それでも、絶対にこの場を離れる選択はできない。
それを中毒だと呼ぶ人もいるだろう。
だけど愛は、結局、選択以外の何ものでもない。
私はそれを選ぶ、故に、私なのだ。
考えてみれば、愛が中毒でなければ、何なのか。
そう思ったりもする。

愛は技術であるとエーリッヒ・フロムは言った。
それは相手を学び、知り、相手の形に自分を合わせていくことだ。
それは一方的でなく双方向であるから、どちらかが不利益だということもなく、ひたすらに互いが自らを壊し合い、また築き合うことを繰り返す。愛の関係性は、破壊と再生による再構築に基づいている。
その過程の中で、決して壊すことのできない自らのパーツも浮き上がり、どうしてもそれを相手に押し付けなければならないこともある。
譲れない何かにぶつかった時、人は自分を再び発見することになる。
そういう意味で、愛するという行為は、引き算の美学とも関係する。
失いながら獲得を繰り返す、愛するという行為。
失うためには、大きな決断が必要となる。
愛が簡単であるはずなどない。
二人で手をかたく繋ぎ、同じ方向に向かって暗闇のトンネルを歩き進み、その先の光を探し出す。それをいちいち繰り返す。
恐れのない愛など、あるはずがない。
そんな行為を、誰とでもできるはずもない。

今日も私ちはトンネルの中を歩いている。
何も見えない暗闇の中で、互いの意見をぶつけ合いながら、どうにか光を探そうともがく。
喧嘩は絶えない。心は疲弊する。
だけど、私たちはどちらも、決して、光を諦めようとは思わない。
光が見えなくても、光があることを確信している。
だからぶつかり続けることを選ぶ。
決して、手を離さないと誓い合う。

愛。
率直すぎて目眩を起こさせる、愛。

そんなトンネルの中、私は今日も彼と歩いていく。

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