微温

微温〈名〉少しあたたかいこと。なまぬるいこと。

この言葉には、非常に様々な意味が含まれている。ざっと挙げてみても、「気乗りしない」「生ぬるい」「中途半端」「大ざっぱ」「モラトリアム」などなどといった関連語および連想語が出てくる。みての通り、良いイメージを持つ言葉ではない。
変だと思われるかもしれないが、私は昔からこのような類の言葉、つまり「印象の悪い言葉」に対して、慈悲の気持ちを抱く癖がある。言葉というものは本来、何かの状態などを人間が言い表すための手段であり、そのもの自体が持つ特性(そんなもの自体が存在するのかさえ怪しい)が着目されることはない。そしてその必要もない。言葉は生身の生き物ではないからだ。だからそういった「慈悲の気持ち」を抱くというのは、とてもおかしなことであることは重々理解している。しかしそれでも、その上でも、私はそういう気持ちを抱いてしまう。

ということで、今日はこの<微温>というどこかネガティブな印象が貼り付いている言葉について、少しでも肯定的な方面がないのか探ってみることにしよう。

微温=生ぬるい。おそらくネガティブな印象がつきやすいのは、この言葉の方程式、つまり微温=(=as known as)「生ぬるい」が成り立つからだろう。つまりネガティブなイメージは「微温」にくっついているのではなく、むしろこの「生ぬるい」という言葉の方にある気がする。確かに日常生活では「微温」という言葉はほとんど口にされず、「生ぬるい」という語の方が多用される。この先はその点もふまえて「生ぬるい」を先行させて話を進める。

「生ぬるい」と聞いて思い浮かぶのは、①飲食物などに関わる温度のイメージ、そしてその次に②「中途半端」を指す「生ぬるい」ではないだろうか。①と②にたいして私の経験を紐づけていく。

①飲食物が生ぬるい
私は昔から食べるのも飲むのも遅い。どれぐらい遅いかというと、具体例で出すと、おにぎりひとつに対して15分ほどかけて食べられるぐらいの遅さだ。私のように食べるのが遅い人間は、時々「私/僕の方が食べるの遅いと思うな」という、謎の戦いをふっかけられることがある。食べるのが遅いということは特にポイントを稼げるものではないと思っているのだが、少数の人々はそのことをどうやらアドバンテージとして捉えて生きているようである。私は特に興味がないので、逆に「いやいや、人は私のことを食べるの遅いなんて言いますが、実際はそんなに遅くないですよ」と返す。結果として彼らは、目の前で空になった皿を眺めながら私の食事が終わるのを黙って見ておくしかない状態に陥る。つまりそれくらい私は食べるのが遅い。そのせいで私は人よりも「生ぬるい」飲食物に耐性があるらしい。温かいものが時間が経てば冷めるのは当たり前のことだ。私はそのことに目くじらをたてることもない。私が完食するのは、だいたいにおいて、冷めた食事だからだ。つまり私は飲食物提供者の敵でもある。最高の状態で提供されたものが、みるみる内に力を失っていく。レストランでコースなんて頼もうならば、サーバーは私の座るテーブル周辺を何周も旋回しなければならない。目の前の同席者は待ちぼうけの末、水を大きなグラス3杯ほど飲むことになり、胃を満たし幸福を運んできたものはすっかり水で薄まり、もはやそれが何だったのかという記憶すらも消え失せてしまう。よく「まだかよ?旨くねえだろもう」みたいな目線を感じる。

しかし実は、生ぬるくなった食べ物は「真の味」を味わわせてくれることを皆さんはご存知だろうか。料理をする人なら知っているだろうが、煮物なんかを作るときには実際に味が具材に染み込むのは、グツグツと煮ている間ではなく、火を止めてから温度が冷めていく間である。また、アメリカで行われた実験によると、温度を上げていくと「甘味」を、下げていくと「酸味」「塩味」を感じる被験者が多かったという結果がある。つまりいわゆる食事と呼ばれる「塩味」「酸味」という味覚を主とする食べ物に最適な温度は「低め」ということになる。そうであれば、「熱い内に食え」と睨みを飛ばすシェフ、「早く食べないと料理に失礼だよ」と呆れる同席者たち、彼らに私はこう言えるはずである。「生ぬるいところまで落とし込んだ<最高に味わいのある状態>を食しているのは、間違いなくこの私である」と。
しかしざまあみろ、とは思わない。味の感度と人が食事から得る安心感/美味さは、全く関係のないやりとりで人の心に作用するからである。そして料理は視覚も重要である。そういったことを考えていくと、明らかに温度のある、湯気の立っている食事の方が美味いに決まっている。心を満たしてくれるに違いない。じゃあこれまでの偉そうなくだりは何だったのかと訊かれたら、私に返せる言葉はない。

②中途半端な生ぬるい
自分の嫌いなところを挙げろといわれたら小さい文字でA3用紙裏表にギッチリと埋められそうなほどに、私にはコンプレックスが多い。そんなのは誰しも一緒なのだろうが、私はそこまで深い間柄でない人たちには、どうやら悩みはない人間に見えるらしい。それはきっと良いことなのだろう、ということでそういう場合は「そうですねーアホなので悩みがどれなのかわからないですねー」とか適当に応えている。が、事実としては私にもコンプレックスはあるのである。その中のひとつが<全てにおいて中途半端である>ということだ。

このことに関しても、自分には意外なのだが、人に否定されることが多い(本人が思って言っているのに、本人以外が否定をするというのはおかしい話だが)。偉そうに語っているからやたら知識を持った人間に思われがちなのだが、実際色々と深く掘られると、私の知識や経験は全てにおいてかなり生ぬるい。私は長年、このことを恥じ続けている。掘られて穴があるならば、本当に入りたいくらいである。

一番自分の生ぬるさ=中途半端さに落胆していたのは20代前半だと思う。東京に出てきて、対人運に恵まれていたおかげで、多くの格好いい大人達と出会った。視覚的格好よさや生き方の格好よさはもちろんのこと、彼らは全員、かなりの知識人だった。そんな輪の中にいれてもらえるのはかなり有難いことだったし、私は彼らと一緒に過ごす時間が本当に本当に幸せだった(いまだに彼らと親交があることも有難い)。ただその場にいるだけでかなりの知識を得ることができたし、なによりも、私よりだいぶ歳上の大人たちが熱く討論している姿に、「大人になってもこれは可能なことなのだ」と知った。それまでの私は、大人になれば脳みそは固まり、埒のあかない話を延々と語り合うことなどできなくなるのだと思っていた(そういった意味でも、いくつになっても、あのこねくり回した小説の書き方ができる村上春樹を称賛していた)。大学時代、毎週末のように友人達と朝陽が昇るまで、映画・性・政治・差別・社会・人間など、様々な事柄について熱く語り合う日々を過ごした私にとって、彼らのような存在は、大人になることへの安心感そのものとなっていた。
しかし、彼らといることで同時に感じていたことは、多大なる劣等感であった。私はこういうことになると自分に厳しくなってしまうようで、「まだ若いんだから」という理由は許せず、単純に自分が彼らのように、何かについて深く掘り下げた知識を持っていないことが、心底嫌だったのだ。というか、それに憧れているのに、結局そうなりきれない自分が嫌いだった。
しかしこれには気質という厄介な問題が関わってくる。私は元来、「広く浅く」のタイプなのだ。それを理解しているからこそ、よりストレスが多かった。正直、いまだに同じ状況を打破できていない。知りたいと思うことを見つけ、とりあえず本を手にとってみたりするのだが、飽きがくるのが早すぎて、結局上部の知識しか身につかないのである。20代前半の一時期は、そういう自分に対する劣等感があまりにも高くなりすぎて、人と会うのが嫌になっていた時期もある。これは完全に弱い人間のとる自己防衛反応のひとつである。無駄に自己分析をしてしまうので、自己防衛に走っている自分も嫌になり、全くの自暴自棄であった。

そんな時、当時一緒に暮らしていた7つ歳上の兄がこんな言葉を放った。
「広く浅いかもしれんけど、そのおかげで多ジャンルはカバーできてるってことやろ。そういう奴は呑み屋に行ってもきっかけが掴みやすいし、誰とでもある程度のレベルまでは話せるし、それは大事なスキルだと思うけどね。仲良くなって話し込んで、お前の知らんことを相手が話し始めたら、そこをまたお前が知識として蓄えれば深まるわけやろ。意外とその中途半端なスタンスが役に立つこともあるぞ。」
この言葉は、私に衝撃を与えた(そんな彼は知識人であるが)。

放っておいても何かしらに興味は持つタイプの人間ではあるので、その言葉をきいて以来、とにかく気の向くまま取り組み、飽きても執着せずさっさと次にいく、というスタイルを意識的に構築した。そういう生活を送ってみて気付いたことは、これは別のやり方での「掘り下げ方」であるということだった。飽きてさっさと次にいくのだが、次の事を調べている内に、意外と関係ないと思っていた事がどこかの時点で繋がる瞬間が多かったのだ。つまり、前に興味を持って関わっていたものが、後々別に興味を持ったものと関連してくるため、結局はランダムにはなっているとしても、ひとつの事柄を深めているという状態に匹敵する何かを得られるのである。
こういう瞬間に出くわすと、本当に無駄なことなど何もないのだなと思う。結局ひとりの人間から湧き出る興味には、そこまで広い幅はなく、通底したテーマは似ているということなのだと思う。それ故に、興味を持つ事柄は外側からは異なってみえても、その奥にあるものは似ているのだ。だからこそ、そうした「あれ?これってあのことと同じこと言ってるし、てことはこういう風にも考えられるってこと?」みたいな瞬間がくるのである。
そして兄のいう通り、私はこれまでにこの「生ぬるい知識力」のおかげで、事実、基本的には誰とでもどんな話題でも話せるきっかけを得てきている。ジャンル数だけはカバーしているので、幅広く異なる趣味を持つ人たちと仲良くなるきっかけが掴めている。このことを教えてくれた兄には、感謝しかない。

とはいえ、私は最近また自分の生ぬるさに嫌気がさすフェーズに入ってきている。人をレベルで分けるのはいかがなものかとは思うが、Pursuit(私が編集長を務めているzine)の制作を通して出会う人々は皆レベルが高く、彼らについていこうとすると、どうしても自分の無知さが目立ってしまうのだ。その人についてある程度詳しくなるのは、食べログと同じで調べれば誰にでも簡単にわかることだ。本当にその人物や事柄について深く、思いもしなかったところまで超越して掘っていくには、まずは自分の中にそのことに関してならなんでも出てくる、というくらいの知識がなければならない。知識が大前提として、そこからさらに入り込んだところに到達しなければならないのが、インタビュアーでありライターの仕事だと思っている。しかしその大前提の知識力が、私には圧倒的に足りていない。こんな公の場で自己目標など語って、読者からすればつまらないの一言だろうが、今、そしてこれからにかけて、私はこの「生ぬるさ」と「真の知識力」を兼ねあわせた、新たな強みを構築していくつもりだ。今冬から取り組まなければならない課題は、すでに私の家で溢れかえっている。とほほ。

…ということで、あれ、これは一体なんの回だったか。新年の抱負を語る会?いやいや、「生ぬるい」を、「微温」を擁護する回ではなかったか。できているか?いや、自信はないな…

この締りのなさも十分に微温的であり、自分にかけられた呪いを解く方法がまだまだ見つからないので、穴の中へ身を隠すかわりに、微温の湯へ沈むことにしよう。
ちゃぽん、あ〜いい湯だな〜

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