かまくら

かまくら〈名〉陰暦1月15日に、秋田県下でおこなわれる、子どもたちの行事。また、そのとき作る、窯に似た、雪の室。雪室の中に神を祭り、もちを食べたり甘酒を飲んだりする。春

静かな夜道をキース・ジャレットのピアノを聴きながら歩き、ふと街灯の灯りを見上げれば、ふわりとした優しさが身体中に集まり、満ち溢れてくるような気持ちになる季節になってきた。東京の冬は、思うより寒くはない。凛としないが、シャンとはしている。年を超えた寒さには厳しいが、人は年末へ向かう寒さには優しくなれる。そういう時期。

南国宮崎で生まれ育った私にとって、雪はなかなか縁遠いものだった。気まぐれに降ったとしても、それはすぐに溶けてしまうか、積ってもそれは石のように硬く固まってどうしようもない。だから高校の修学旅行で訪れた長野のスキー場でみた本物の雪は、私には感動ものだった。その後大人になってから東京、トロント(冬にはマイナス26度の世界になる)と住んだので、今では雪への感動はずいぶんと薄い。それでもやはり東京にたくさん雪が降る日には、早起きをして汚れてもいい服に着替え、外に出てせっせと雪だるまをつくってはしゃいでしまう。2年ほど前に東京に大雪が降った日、その一時期だけ兄と暮らしていた私は、兄とふたりで家の前に大きな雪だるまを作った。使えそうな野菜を持ち出して顔を描いたら、最後に兄が被っていた帽子をちょこんとその上にのせて完成。私たちの雪だるまは数日はそのまま、家の守り神のようにして立っていた。雪の前では誰もが童心に帰ってしまう。雪だるまの会いたくなるようなあどけない笑顔のせいかもしれない。通りで挨拶を交わすことのない東京だが、雪が降った翌日には多くの家の前に雪だるまが並んでいて、そんな彼らの前を通り過ぎると、まるでその家の主人に挨拶をしているようなそういう気持ちになるから不思議である。だから私は東京の雪の一日が、楽しくて好きだ。

雪にはだいぶ慣れ親しんだ私だが、いまだに見たことのないもの、それがかまくらである。どうしてこんなに見かけることがなかったのだろうと思ったら、秋田県の伝統文化と知って納得。雪の量も圧倒的に降る場所でなければ、人が入って動き回れるだけの大きなかまくらを作るのは無理だろう。

辞書の内容に補足をすると、かまくら(行事)は雪室(かまくら)の中に水神を祀り、神さまを参ってもらった礼として子ども達が客をもてなすという祭り行事らしい。参った客に対し「はいってたんせ(かまくらに入ってください)、おがんでたんせ(水神様をおがんでください)」と子ども達は声をかけ、もちや甘酒をふるまう。かまくらについてそんなことを調べていると、遠慮なくがめつい私の食欲がついつい脳みそを刺激し、もてなすっていうのはどれくらいの量なのかな?これはタダなのかな?なんて思ってしまうわけである。だって、他人の家(かまくら)で祀っている神を拝んだだけで感謝され、しかも美味い食べ物と酒をふるまってもらえるなんて、親切しかない祭りじゃないか。なんて思っていたら、世の中そんな甘かないわけで、参った大人たちは賽銭を水神様にあげ、子どもたちには餅や果物を渡し、それらは後に子どもたちに分配され持ち帰られる、ときちんと書いてあった。いやはや、なんともお恥ずかしい31歳である。もてなす子どもは小学生〜中学生が対象となり、高校生になると大人として参る方になるらしい。

代表的なものでは秋田県横手市のかまくら祭りがあげられるが、新潟の方にもその文化はあるらしく、そちらの方では「ほんやら洞」と呼ばれているらしい。気になって「ほんやら」の由来を調べてみたが、方言とだけではっきりとした答えがわからなかった。漫画家のつげ義春が『ガロ』という短編漫画集に『ほんやら洞のべんさん』という作品を載せているのが有名らしく、機会があれば是非読んでみたい。

大抵祭り事で祀られる神というのは、その時期のその土地に必要があって祀られる。雪が水でできているのに、どうしてわざわざ水神を祀るのか。疑問に思って調べてみると、どうやらかまくら祭りが行われる地域は稲作が盛んらしく、作物を育てるのに良い水に恵まれますようにという意味で祈られるらしい。どんなおかずを除いてでも米だけは欠かせない私にとって、これは非常に大事な祭りである。

調べていて面白かったのは、何故この祭りの主役が子どもなのかという理由だった。一説によるとそれは、子どもが最も神に近く神が容易に扱いやすいから、らしい。しかしこれ、少し不思議なことではないだろうか。

祭り事というものはそもそも神が始めたものではなく、人間が自分たちが直面する厄に対し救いを求める意味で行われ始めた場合が多い。つまり、その中での決まりごとは全て人間が考え出したものということになる。というように考えていくと、この「子どもが最も神に近く神が容易に扱いやすいから」というのが本当である場合、どこかの時点で水神が人間の誰かに「おい、俺/私を祀るなら、そばに置くのは子どもにしておくれ。彼らが一番扱いやすいんだよ」というように伝えたということになる。その過程がなければ、この考えは人間の勝手な予想ということになってしまうのだから。昔は今よりも神もしくは霊のような存在と近い人間が多かったかもしれないので、誰かがお告げを聞いたということなのかもしれない。かまくらの歴史は約450年の歴史があるということだが、ここの経緯についてもネットでは詳しく調べることができなかった。子どもの時にだけあなたに訪れる不思議なトトロを鵜呑みにして生きてきた私だが、残念ながら子どもの時にでさえトトロは訪れてくれなかったので、ちょっと意地悪になっているのは許してもらいたい。私の身長が144cmで止まったのは、未だ諦めていないことをこの身が証明していることの証であるということだろうし、これから歳をとるにつれてますます子どもの身長に近づいていくはずなので、期待は高まる一方である。

かまくら未経験の私だが、昔からよく聞くのは「かまくらの中は暖かい」説である。確かに中には火鉢があったりして、真っ暗な夜にそこだけ優しく輝くかまくらの様子は、写真や映像越しにも温度が伝わってくるような暖かさがある。しかしどうやらそれはあくまでも外に比べたらという話らしい。実際は室内も0度くらいのものだということなので、かなり寒いはずだ。お酒を呑んだり寒いところにいるとすぐにトイレに行きたくなってしまう私なので、かまくらという文化が私の生まれ育ったところになくて本当によかった。もしも横田市で生まれ育っていたら、私のあだ名はトイレのピー子さんになっていたかもしれない。あゝ考えただけでもおそろしや。

しかしかまくらが暖かいと人が言うのは、おそらく感覚的勘違いもあるかもしれないが、中で待つ子どもたちの笑顔が暖めてくれるとも言えるのかもしれない。実際に写真に写る子どもたちの笑顔は、寒さなど微塵も感じさせない柔らかくあたたかな表情をしている。マッチ売りの少女も、彼女を暖めたのはそのマッチの火そのものではなく、彼女の浮かべた幻想だった。最後にみた幻想、祖母の姿は彼女を優しく包み、そうして少女は凍える冬の日に逝ったのだ。

人間の想像力=勘違いには、あらゆる事実的限定条件を超え、現実的実感をもたらすほどの強さがある。実際に私も、凍える寒さの中で寒いと思って身体を強張らせている時、ふっと全身の力を抜いて頭の中で(全然寒くない!)と思うと、それから数秒ほどは本当に寒さがどこかに飛んでいってしまう。本当の話である。これを言って私のことを笑わなかった友人は今のところ一人もいないが、しつこいが本当なので是非試してみてもらいたい。特にもしもあなたが、勘違いこそが夢の実現をもたらすのだ、といったような楽観主義に憧れを持つのであれば、これからの季節、是非とも日々の訓練の一環として取り入れてもらいたい。いかに脳を騙せるか、それこそが夢実現への近道だと聞いたことがあるし、私もそれを信じているくちである。引き寄せの法則について知る人であれば、それも同じ仕組みだと分かるだろう(全てを完了形にして考えることで、すでに手に入っていると自分を勘違いさせ、その嘘を真実に変換させていくことで幸運を引き寄せるという仕組み)。ちなみに私はそのような日々の訓練の積み重ねの一環として、金に困らない生活の実現のため、金に困っていないしむしろ私は金持ちだ体で散財生活をしているが、今のところ口座の数字は見事なうなぎ下がりである。是非とも参考にしてもらいたい。

現在のかまくら祭りは月遅れの小正月となる2月15、16日に行われているらしい。秋田県にはずっと行ってみたかったし、是非ともかまくらを体験してみたいので、来年の2月までには私のこの日々の努力も見事報われ、口座に住むうなぎが方向を変えてくれることを願うばかりである。そのためにもやはり今日も気を抜かず、金持ちのふりをして散財に力を注なければならない。私の武器であるこのマックさえ手離さなければならない日がもしも来たとしたら、その時には凍える雪の日に、マッチを擦ってかまくらの幻想でもみて暖まることにしよう。

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