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昨日、何十年かぶりに自転車で転んだ。
派手に、スッテーーン!と。

せっかちでズボラで歩くのが大嫌いな私は
坂の多いこの町では、できるだけ電動自転車(以下、電チャリ)に乗って移動することにしている。荷物重いし、身体も重いし、体力ないし。

で、少し坂を上がった先にある自宅から徒歩3分のパート先も
いつも電チャリで出勤している。
 
昨日は午前中曇り、夕方は雨の予報だったけれど、何しろ徒歩3分の距離だから、もし雨でも坂を下ってすぐ家だし、濡れて帰ればいいや、と横着して電チャリで出勤した。

途中雨が激しく降ったようだけど、私が仕事を終えて帰る17時過ぎには小降りになってて、さすが私、ついてるな。と思い、ラッキーついでに買い出ししてから帰ろうと、少し先の業務スーパーへ向かった。

必要なものだけ買って帰ろうと思っていたのが、こういう日に限ってあれこれほしくなるもので、息子が大好きな白菜が1玉まるごと88円だったり、じゃがいもや玉ねぎなどあれこれ買い込んで、ずっしり重くなった荷物を自転車のカゴに積み込み、愛する電チャリを家に向けて発進させた。
 
多少の雨でも電チャリを使うので、滑って転びそうになった経験から、マンホールとか、雨水がたまる金属のアミアミ(グレーチングというらしい)でタイヤが横滑りするので注意しなくてはいけないことは知っていて、ゆっくりマンホールを避けながら、無事、家の駐輪場にたどりついた。
 
そして、駐輪場に停めるために、ハンドルを左に切ったその瞬間、事件は起こった。
 
なぜか身体が横滑りして、自転車が横転。
自分も買い込んだ荷物も全部吹っ飛んだ。
 
あれだけ気を付けてよけていたグレーチング
駐輪場の入り口の足元にあって、そこで横滑りしたらしい。
直前で気を抜いてしまったせいだ。

昔、トイレをもよおして、なんとか家の前にたどり着いた瞬間に気が緩み、うっかりそそうをしてしまったことがあるが、そう。家がゴールではない。家のトイレで便座に座る瞬間まで気を抜いてはいけないのと同じで(失礼)
 
この電チャリも、きちんとスタンドを立ててカギをかけるまで気を抜いてはいけなかったのだ。
 
我ながら脇の甘さを呪った。
 
しかし、数十年ぶりに転んでみて改めて体験したのは
人が転ぶときって、笑っちゃうくらいスローモーションになるってこと。
 
今回もそうで、「やばい」と思ってから、実際に自分が転ぶまでに「あーれぇぇぇえーー」と叫ぶくらいの時間はあった。
 
そして着地した瞬間。コンクリートの地面に左ひざが激突。
あまりの痛さに声も出ず、曇天の空の下、一人うずくまる私。
 
ふと目の前を見ると、エコバッグからぶちまけられた野菜たち。
そしてパックから飛び出したミニトマトがコロコロコロ・・・と駐輪場のいたるところに転がっている。

ドラマみたい。
 
とその風景を見て思ったけど

いや、ドラマなら誰かが拾ってくれて
最後の1個を拾い上げるときに恋に落ちるはず。
 
しかし今の私は、
こんな天気の中、通る人もおらず、助けてくれる人もおらず、
痛くて動けないのでしょーもないことを考えている
47歳のロマンチックじゃないただの濡れネズミ。いや濡れオバサン。

と、しょーもないことを考えてじっとしていたら
痛みが少しずつ治まってきて
どうやら左ひざと両手をついて転んだので
左ひざの激痛はあれど、打撲以上のケガではないことが分かる。
 
転ぶ瞬間って、人は時空を超えているのではないかと思う。
その「あーーーれーぇぇぇえ」と叫んでいるスローモーションの時間のうちに、運動神経が鈍い私なりにできる着地をしたのだろう。
数十年ぶりに転んだのに、受け身が上手に出来た自分をまず褒めよう。えらいぞ私。
 
そんな自分褒めで自己肯定感をあげてふと次に気づいてしまった現実。

このトマト、拾うのかよ。
 
おそらく20個はあったと思うミニトマトは、一つもパックに残っておらず、見事に全部が転がっていた。
 
一瞬、知らんふりをしてそのまま立ち去ることも考えたが
トマトがつぶれたときの汚さを考えると、さすがにこれは拾わなくてはマズイ、このまま逃げたらきっと次はトマトまみれの上で転ぶころになると思い、重い身体をよいしょと持ち上げ、とぼとぼと一つずつ拾い上げ始めた。
 
よくぞここまで転がったな、というほど先まで転がったミニトマト。
転んでからトマトを拾いきるまでずいぶん時間がたったように思うが、目撃者も通行人もいなかった。寂しい。
 
なんとか荷物を拾い、家に入ってほどなく中2の息子が帰宅した。
あまりに寂しかったので、なぐさめてほしくてことの顛末を話したが、残念なことに息子が発した第一声は

「トマトはどうしたの?食べられそう?」

だった。

やはりこの子は旦那そっくりだ。
車をぶつけても、私の安全より車の傷を気にする、あの旦那のDNAだ。
なんてこった。普段から思ってるけど、やっぱり共感力がない。
 
大丈夫じゃなくても、大丈夫でも
「大丈夫?」と聞いてくれよ。

とは思ったが、こんなことは慣れっこである。
私の中のたくさんのかまってちゃんは、結婚そして育児生活の十余年で騒ぐのをあきらめかけている。

まあ、いいよいいよ、いつもそうだ。慣れているさ。
息子の顔を見て少し気持ちが緩み、頭を撫でたら
「キモっ」と言われた。

母親なんてそんなもんだ。濡れおばさんは小さくため息をついた。

とはいえ、自分の横着で危険な雨の日に電チャリに乗り
数十年ぶりに転んだにも関わらず、幸いにも着地がうまくいき、大きなけがもなく、ドラマみたいな光景を味わったのだからまあいいとしよう。
 
若いころのように怒るエネルギーがなくなったせいか、最近はなんでも諦めがいい。歳をとると忘れっぽくなり、いい思い出しか残らないようになると聞くが、確かにここ最近、昔なら1週間くらい怒り狂い続けられそうな案件でも「まあいいか」で済むようになった。老眼で小さいものも見えなくなったから、まあいいか、ってのが多くなった。

できなくなることが増えるって、不便なこともあるけど、幸せなこともあって歳をとるって素敵ね。
 
そしてこの素敵に歳を重ねた濡れおばさん、最近では、何かトラブルがあったときに、すべてを解決する魔法の言葉を思いついて使っている。

それは

「厄落とし」

不幸の先払いをして、大難を小難に変えた「ことにする」
のである。
 
昨今の世の中は
地震、雷、火事オヤジでなく
豪雨にコロナに災害だらけ。
 
おまけに私は乳がん経験者でもあり、一度は死を身近に感じたこともあるせいか、人っていつ死んでもおかしくないんだよなって思うから

今回みたいな転倒事件も、きっと、この転倒がなければ、この先に起こるであろう事件がもっと大きくなったりしていたかもしれず、その未来に起こるであろう禍を小さくするための厄落とし、と位置付けるわけである。
 
結局それが本当かどうかなんて、誰もわからない。でも、もしかしたら本当に厄落としで大難が小難になっているのかもしれないし、この先にもし何か良くない出来事があったとしても、そのときもきっと「この前チャリで転んだから、今回もこの程度で済んだのかもな、私ってラッキー」ということになる。

本当かウソかなんてどうでもよくて、そう考えることで私が幸せになるのだから、それでいいのだ。

ちなみにこの大転倒があった日の深夜、なんと仕事先に窃盗目的の賊が侵入するというビックリ事件が発生したのだが、ガラスを割られて侵入されてしまったけれど、不幸中の幸いで盗難品は何もなかったらしい。
 
店舗がガラス張りで侵入しやすいと目をつけられたのか、他店でも似たような事件が相次いでおり、目的でバリケードや高額品を事務所に保管するなどの予防策をとっていたおかげではあるのだが、高価な古着など、盗もうと思えば盗めるものも結構あったはず。
 
それでも盗難がなかったのは、きっと私が昨日転んで、厄落とししたせいだと思うことにする。ああ、いいことをしたな。
 
終わり。また明日。
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