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積雪期津軽半島の徒歩縦断

1.はじめに

 2018年末から足掛け3年、冬の津軽半島を3回に分けて徒歩で縦断した。2022年元旦に最終地点である龍飛崎に辿り着き、無事に完結を迎えた。最後となった3回目は強い寒波の中、豪雪地帯・津軽の山中を笹、灌木をかき分けながら、深い雪に脚をとられ4日間歩きとおした。厳しい寒さ、テントを叩く吹雪、あれは正に思い描いていた冬の津軽だった。津軽は実に多彩な表情を見せる山域である。2019年末の山行では、寡雪だったせいで背丈を超える笹・灌木が行き手を遮り、その上、冬の冷たい雨にも打たれ低体温症寸前まで苦しめられた。完結から1年が経過した今、徒歩縦断について振り返りながらその思い出を綴ることにした。またその経験を通じて考えたことについても書き記したい。

晴天に恵まれ穏やかな津軽山地の様子

2.積雪期津軽半島徒歩縦断とはなにか?

 豪雪地帯である津軽半島には3つの山域がある。龍飛崎を北端に南北に中央分水嶺を成す梵珠山地・中山山地と、半島の北東部に位置する平館山脈である。梵珠・中山山地と平館山脈の間には県道14号線、JR津軽線が走り両山域を分断している。私が実行した徒歩縦断は南北に走る梵珠山地・中山山地の主稜線を南端の大釈迦から北端の龍飛崎まで積雪期全山縦走する計画である。2018年末から2022年元旦にかけて3回に分けて実行し、全行程長は125kmに及んだ。計14日間を要する冬の山旅となった。

各山行の行程については以下の通りである。
【1回目】日程:2018.12.29-2019.1.2 計5日 参加人数:5名 距離:42km
行程:大釈迦~梵珠山~馬ノ神山~源八森~十二岳~蓬田
【2回目】日程:2019.12.29.-2020.1.2 計5日 参加人数:5名 距離:45.4km
行程:蓬田~大倉岳~袴腰岳~玉清水山~中山峠~津軽二股
【3回目】日程:2021.12.29-2022.1.1 計4日 参加人数:3名 距離:38km
行程:津軽二股~四ッ滝山~矢形石山~算用師峠~龍飛崎
※2020年末は新型コロナウイルス感染拡大を受け3回目の山行を1年後に延期。

雪深い津軽山中を歩く

3.なぜ計画・実行したのか?

 なぜこのような徒歩縦断を計画するに至ったのかについて簡単に説明しておきたい。かつて私は大学のワンダーフォーゲル部で登山を始めた。大学在籍中の4年という短い期間で、ほんの少しだが北海道日高でのヤブ漕ぎ山行や正月の北アルプス縦走、夏の南会津の沢の継続遡下降など、四季を通じて自然環境の中を”彷徨う(=Wanderung)”経験に恵まれ、冒険性や探検性の追求とは異なる領域で登山を愉しんでいた。しかし大学を卒業し就職して社会の一員になってからは登山との関わり方も大きく変わり、はっきり言って山とはかなり疎遠な生活になってしまった。だが2016年にトランスジャパンアルプスレースのTV番組をたまたま観たことがきっかけで生活は大きく変わった。選手たちの超人的な体力や情熱、大会に懸ける思いに大いに感激したのはもちろんだが、何より日本海から太平洋まで3つのアルプスを繋げて列島を縦断してしまうという登山としてのアイディアにすっかり痺れてしまったのだ。それからトレイルランニングを始めたり、アルプスでトランスジャパンアルプスレースに影響を受けた山行を実践したり、志向の変化が転機となり、疎遠になっていた登山ともまた向き合い直すようになった。

 2年ほどそのような傾向の登山が続き、この新たに取り入れた登山スタイルに慣れも感じ始めた頃、同時にちょっとした違和感のようなものも感じ始めるようになった。例えば無雪期に南アルプスを黒戸尾根から取り付いて茶臼岳までぐるりと2泊3日で縦走するような山行を計画・実行したとしよう。食料・装備は必要最低限に絞り込んで6〜7KG程度の重量にパッキングしないと、私の身体能力では貫徹する事ができない。そして当然、行動スピードを上げ、かつ行動時間を長くすることになる。これ自体は問題ないのだが、必要なスピードを維持する為にはやはり登山道を使う事が前提となってくる。すると不思議なことに1日で行動可能な距離が延びることで行動範囲が広がったかのように見えるこの山行スタイルも、登山道の使用という限定に縛られることで、ある面では行動範囲がぐっと狭くなってしまっていることに気づいたのだ。今になって冷静に振り返ってみれば「そんなの当たり前だろう」と思わずツッコんでしまいそうな話なのだが、当時の私はなにか素晴らしいものを得た代わりに大事にしていた何かを忘れてしまったような感覚に捕らわれだした。このことから私は一体どのような登山がしたいのか、というごく根本的な自問自答にせまられたのだ。

 そこで、また学生の頃のように登山道に囚われず自由に自然環境の中を彷徨い歩けないだろうか、と考えた。しかも当時自分が熱中しているスタイルの登山の如く、1回の山行で大きな山域の全体を行動視野に収めるようなスケール感を持ったものにできれば、より素晴らしいものになるだろう。普通の会社勤めで得られる最長1週間ほどの休暇をフルに活用してターゲットに成り得る山域はないだろうか、と地図を眺め始めた。こうして登山対象の山域として浮上してきたのが津軽山地である。標高は最高でも600m台と高さは無い。ただし山域の広さは決して小さくなく、深南部を除いた南アルプス(甲斐駒ヶ岳から光岳)がスッポリと収まってしまうくらいの大きさがある。林業用の林道が山域を横断するように無数に走ってはいるが南北に走る主稜線を縦断する縦走路は繋がっておらず、いくつかの目立つピークに至る登山道があるだけで、山域のほぼすべてが笹・灌木や樹林に覆われている。この山域を舞台に登山をするならば林道やわずかな登山道をも深い雪が覆い隠してしまう冬が最良と考えた。そうすれば道なき山中を深い雪と行く手を遮る藪をかき分け、自ら道を切り開く登山ができるのではないか。積雪期となれば1回の山行での完結は難しいかもしれない。けれど理想とする1回完結ができなくても2回、3回と分割することで、この山域を端から端まで歩ききれるのではないか。そんな理想をイメージし徒歩縦断の計画が始まった。

道なき冬の津軽山中を進む

4.記録

(1)はじめての津軽

 2018年末、第1回の山行が実行された。私含めた参加者5名全員が津軽での登山経験は無く、これが初めてであった。そこは冬の津軽。登山開始早々、当然のごとく脚は雪に埋まり切ってしまいあっという間に上手く歩くことができなくなり、すぐにワカン(注1)を装着する。ワカンを履いた状態で膝あたりまで脚が埋まるような深さのラッセル(注2)がずっと続いていく。北上するにつれて徐々に背丈を超えるほど笹が密生し行く手を遮るようになる。雪に沈む足に気を取られながらも笹を手でかき分けて前へ前へと歩いていく。こんな調子だから体力の限りもがいてもなかなか前に進まない。やってみれば1回の登山でけっこう良いところまで進めるのでは、という淡い期待は早々に崩れ去った。やはり冬の津軽はそれなりの期間をかけてしっかり腰を据えて取り組むべき課題なのだと、この時初めて実感した。

吹雪けばこの通り、視界が効きにくくなる

 山域全体の地形がなだらかなため技術的に危険な箇所は現れない。ただただラッセルとヤブ漕ぎ(注3)に集中して毎日少しずつ前進していくのみである。時折、笹をかき分ける手を休めてふと東方向に目を向けると、樹林の隙間からは陸奥湾がうかがえた。なだらかな山容ゆえ毎日テントを張る場所には困らなかった。日没前に適地を探し、笹を払って足で整地してあげればすぐにテントサイトが完成する。終始、樹林帯の中なので吹雪いた日でもテントに当たる風は弱く、雪のブロックで壁を作る必要もない。夜テントから外にでると青森市街の街灯かりを遠くに望むことができた。初めての津軽は登山開始から4日目に大倉岳手前の避難小屋に至り、翌日、蓬田方面の林道へ下り、下山した。

ワカン。冬の津軽の必須アイテム

注1:「輪かんじき」のこと。登山靴に装着し接地面積を大きくすることで足が雪沈み込むのを防いでくれる。雪山登山のマストアイテム。

注2:雪に埋まりながら雪をかき分けて前進する事。ひどいとき腰、最悪の場合、胸まで埋まることもある。雪深い山域の登山ではほとんどがラッセルに終始するので、登山の成否はほぼラッセルにかかっているといっても過言ではない。

注3:植物をかき分けて前進すること。植物の種類、幹の太さ、密度によって最適なかき分け方が変化する。密度が濃ければ前方がほとんど見えないこともしばしば。山域によっては幹がかき分けられないほど太い藪が密生しており、ヤブの上に乗り前進する”空中戦”を強いられることもある。

雪を掻き分けて前進する

(2)冬の津軽の厳しさ

 翌2019年末、昨年のゴール地点となったJR蓬田駅をスタートし、昨年下山したルートを逆戻りして大倉岳へと登り始めた。昨年からメンバー構成の若干の変更があったがこの年も参加者数は私含め5名となった。序盤は天候にも恵まれ、昨年に比べて雪が少なかったこともあり、順調に進めるのではないかと思いこんでいた。まだその時点では雪が少ないことでどんなひどい仕打ちを受けることになるのか、思い至らなかったのだ。大倉岳や袴越岳などの山頂では日本海や岩木山、そして津軽山地の全域など、広大な眺望を得ることができ、思わず歓声が上がった。だが問題は2日目に袴腰岳を超えた先に待ち構えていた。笹主体の植生のヤブ漕ぎであることに変わりはないのだが、雪が少ないことで笹の密生度が昨年と比べ物にならないくらい濃いのである。雪が浅い分、笹は背丈を余裕で超え2m以上に達している。密生した笹が視界を遮り、数メートル先も見通せない。3メートルほど先行者と距離が空いてしまえば、もう笹の葉の陰にチラチラとザックがちらつく程度しか視認できなくなる。ガサガサと笹をかき分ける音とお互いの声だけがメンバーの位置を知るための情報になる。時折、声を掛け合いながらお互いの位置と進行方向を確認する。手袋をはめた両手で笹を押し広げ、空いた空間にまずは脚から身体を滑り込ませる。上半身の動きに注意しながら脚を雪に囚われないように下半身へも神経行き渡らせ、うまくバランスを取らなくてはいけない。そんなことを一日中続けるうちに食料、宿泊道具など、およそ一週間分の重荷を背負った身体が徐々に悲鳴を上げ始める。

密生する笹に行く手を阻まれる


 そんな苦境の中でさらに追い打ちをかけるようにしとしとと冬の冷たい雨が降り始める。積雪期の山行で雨に打たれ肌を濡らすということは、寒冷な環境下で常に気化熱を奪われ続けるということである。格段に低体温症のリスクが高まっていく。雨具の中の衣類、手袋の中、所かまわず雨水は侵入し、徐々にだが確実に身体の熱を奪っていく。昼過ぎには手袋は水に漬けたようにビショビショになり、メンバーの気力も落ちていき、動作も緩慢になっていた。言葉数も減っていき、明らかに低体温症の兆候が見え始める。これ以上行動を続けては危険だというサインだ。大事に至る前にこの日は行程を終了し、すぐにテントを設営し中にもぐり込んだ。

殺伐とした空気が漂うテント内の様子

 もはや誰も元気に会話を楽しむ余裕もない様子である。テント内に散らかった装備類を整理整頓する元気もなく、殺伐とした空気がテント内を漂う。みなが「もうたくさんだ。」「明日直ぐに下山しよう。」と俯き加減で無言のうちに語りかけてくる。するとついに一人が明日すぐに下山しないか、と口を開いた。ちょうどそのとき私はもう1日だけなんとか粘れないだろうか、ということを考えていた。疲弊しているメンバーには悪いが、もうあと1日前進することができれば恐らく四つ滝山に至る稜線に達することができるだろう。そうすればこの2回目の山行で全体の2/3まで進んだことになり、次回、3回目の山行で北端の龍飛崎に達する目途が立つ。今、登山を中止し下山してしまえば、中途半端な距離の行程を残すことになり、恐らくもう2年を費やすことになるだろう。それ自体は悪いことではないのだが、苦しい、つらいという理由だけであきらめて下山してしまったら後悔を残すことにならないだろうかと考えたのだ。明日になれば雨はやむかもしれない。

 だが私がそう考えたからと言って他のメンバーが賛成するかどうかは全く別の話である。現にみな体力を消耗しているし、既に明日すぐに下山しないかという提案が出ている。それをないがしろにしてまで自分の考えを無理に通すことはチーム登山の意義を損ねることになるし、なによりリスクが大きいだろう。私の提案は、皆が納得し実行する意思を持たなければ当然、遂行することはできない。もう1日粘る具体的な理由をきちんと説明すると共に、私が思う”登山とはどういう行為なのか”について話をした。自然環境の中を自由に歩き回る登山の自由の中に、厳しい天候に晒されることもまた、登山の自由そのものの内に含まれるのだ、ということだ。この厳しい天候に晒されている状態そのものが、登山という行為の重要な要素の一つだということをできるだけシンプルに伝えた。もしかしたら私がメンバーの中でたまたま一番の年長者でこの計画の立案者でかつリーダーだったから皆が渋々従ってくれただけかもしれない。とにかく翌日、雨は止み、私たちは奮起してもう1日行動し、なんとか目標とした四つ滝山へ至る稜線のわずか手前まで達した。そして、さらにもう1日を費やして、登山開始5日目に無事、今別に下山することができた。県道にたどり着いたときはみなその場に倒れこんだり、座り込んだりしてしばらく動けないほど疲労困憊だった。

(3)龍飛崎へたどり着く

 翌年、2020年の年末はコロナウイルスが猛威を振るい年末から徐々に都内の1日当たりの新規感染者数がそれまでの数百人単位を超えて、千人単位に達しようとしていた。今振り返れば2022年の夏には毎日、数万人単位の新規感染者が都内で数えられており、それと比べれば大した数字には見えないが、当時はこの感染者数増加は世間に大きなインパクトを与えていた。もっとも私たちは十分な感染対策をしたうえで、これまで以上に安全に注意し登山を決行しようとしており、そのための準備山行も秋頃から開始し、準備を整えていた。しかし、当時まだ一日当たりの新規感染者数が数人程度しか数えていない青森県に、感染が拡大する都会から人が訪れることに対する現地側の影響、心情を考えると決して私たちだけの都合で決行の判断を下すことはできなかった。青森県到着から帰京まで一切、現地の方と接触を持たないようにする方法も検討したが、それはまるでコソコソと行動するようで気が進まなかった。皆で相談した結果、一年延期した方が良いという結論に至ったのだ。

雪がしんしんと降り積もる林道。強い寒気が襲来していた。

 そして翌2021年。準備山行はこれまでより早めに夏頃から動き始めた。故障等で離脱を余儀なくされたものもおり、最後の山行は3人で臨むことになった。出発の直前、現地の民宿に宿泊可否等を電話で問い合わせた。ちょうど強い寒気が襲来しており、宿のおかみに様子を聞いてみると「この時期にこんな雪になるのはウン十年に一度よ。」とのことだった。2年前の山行でくたくたになって下山した林道の入り口にたどり着いてみると、当時と比べると明らかに積雪が多い。早速ワカンを装着し長い林道アプローチに取り掛かった。まだ夜が明け切らぬ薄闇の中、眠い目を擦りながら歩いていく。暗い雲からしんしんと大粒の雪が降り続けている。

ワカンを装着し雪深い斜面を登る
急な斜面を雪を掻き分けて登ってゆく

 2年前に苦労して到達した四つ滝山に至る稜線と南からの主稜線が交流する地点に来てみると、明らかに前回と比べて笹の密度は薄いことが確認できた。どうやら身長を超える高さに達する笹は大部分が雪の中に埋まっており、先端のか細い茎を控えめに雪上にのぞかせているだけのようだ。その分、厳しいラッセルにはなるが、雪の締まり具合は悪くなく、ワカンを履いてしまえば、概ね膝が埋まる程度だった。ただし傾斜のきつい斜面の登りでは腰まで埋まることもあり、その時は目の前の雪を手でかき分けてまずは腰の高さくらいに小さい足場を作り、膝で乗り込んで圧し固めてから脚を載せるという手のかかる工程をひたすら繰り返す必要があった。雪はしんしんと降り続けた。夜は吹雪がテントを叩く音と寒さで何度も目が覚めた。

2年前に手を焼いた笹は深い雪の下

 進むにつれて進行方向右手の東側には三厩湾、反対の西側には日本海が良く望めるようになり、海に囲まれた半島を岬に向けて前進している実感が深まってくる。たっぷりと雪を乗せて真っ白になったブナ林の向こうから、青い海が覗く光景は美しくて忘れがたい。津軽海峡の向こうには北海道の松前半島がうっすらと見える。真っ白な雪山が海から猛然と突き出てきたかのようだ。小ぶりの貨物船が海峡を西に向けて航海しているのも見えた。日々前進するにつれ次第に左右の海の間隔は狭まっていく。岬が近づいている証拠だ。少しずつ天気も回復し雲の隙間から海面に光の筋がいくつも降りている。

雲の狭間から光の筋が降りている
ブナ林から除く青い海

 やがて前方に蛇行しながら続いていく稜線のはるか先に竜泊ライン(国道339号)がかすかに見えた。ここまで来れば長かった山旅ももう終わりが近い。何の変哲もない電柱を見つけそれを目印に急な斜面を下るとあっけなく雪に覆われた国道に出た。巨大な風力発電装置を横目に国道を2時間ほど歩くとやがて除雪された道路となり、そこからものの数分で龍飛崎へとたどり着いた。あたりには営業中のホテルが一軒。他にあるのは、食堂か何かの廃墟。コンクリ造りの武骨な展望台。よくわからない海上自衛隊の施設。そして小さな灯台。旅の終着地である龍飛崎はとても殺風景な場所で、やたらと強い風が吹いていた。

冬の龍飛崎はとても殺風景な場所だった
龍飛先漁港
食堂か何かの廃墟
津軽海峡

5.津軽での経験を通じて考えたこと

(1)登山の一回性

 登山を継続していると必ずといっていいほどスポーツに近接することがある。どちらも身体を動かすことが行為の中心にある以上、免れないことのように思える。身体的なパフォーマンスの高さがそのまま登山の成否に直結することは多々あるし、充実した体力が安全登山に一役買うのもまた事実である。エンデュランス系スポーツの能力はそのまま一部の登山形態の能力に置き換え可能でさえある。

 だがしかし「登山はスポーツの一種であるか」と問われれば、多くの登山者は首を横に振るだろう。両者に何か本質的な違いを見出しているからだ。私はこの違いについて、スポーツが成立する重要な要素として「再現性」という概念を取り上げ、これに対置させる形で「登山の一回性」を強調することで説明を試みたい。

 まずスポーツを成立させる要素として再現性が重要であるというのはどういうことか。スポーツが競技としての競い合いを前提としていることに注目して欲しい。どの競技もルールは勿論、使用する道具、フィールドについて、仕様が国際的に細かく決まっていて、それが変更されない限り、地球上のいつ、どこで競技が行われても基本的には比較・交換可能なものとして扱われる。当然、その場所の気候などに左右されることはあっても、少なくともそれらのブレは極力排除されるべきものと考えられているし、細かいルールの設定は、それらによって差が生じないことを目指して制定されている。つまりいつどこで競技されようとも条件が平等になるよう規格化し、こうすることで競技の再現性を担保しているのだ。

 次に登山の一回性について説明する前に、まずは登山がスポーツと近接するとき、再現性という観点がどのように導入されているかをわかりやすく示したい。これは特に無雪期の登山道を有するルートで顕著だが、例えば「標高差1000mの登りルートをn時間で登った(登ることができる)」というとき、尾根の比高を数値化することで○○尾根と△△尾根を交換・比較可能なものとして規格化している。「標準コースタイムのn%の時間で歩いた」というときも同じである。「標準」という言葉にまさに規格化の働きを感じ取れるはずだ。このようにして山を競技場化するとき、登山の再現性が担保され(されたことになり)、登山のスポーツ化=競技化の契機が生まれる。近年のトレイルランニング競技の興隆は登山のこの要素を広く・深く推し進めた結果と言えるだろう。

 以上のように、登山の中にもこの再現性という概念がわずかに認められるが、これだけでは当然、登山の性質を捉えることはできない。登山のフィールドである山は、競技場と正反対に、その容貌を刻一刻と変化させているからだ。再現性とは真逆の概念でとらえる必要がある。そこで「一回性」という概念を取り上げたい。一回性というのはつまり、同じことが二度と起こらない、ということである。茶道の言葉に置き換えれば「一期一会」に近い。

 四季を通じて山に通えば、たとえ同じ場所を訪れたとしても、時々の気候、その他の条件によって、同じ状態を保っていることが無いことはよく分かるはずだ。同じ季節に同じ場所を再訪しても、「前回来たときは、笹はもう少し雪に埋まっていたな」とか「以前は水量が少なくてこの滝は直登できたのだが・・・」など、変化を挙げればキリがない。この性質はヤブ漕ぎや沢登り、積雪期登山など、一般登山道を外れたときに、よりその性質を強める。なぜなら先にスポーツに関連して少し述べた通り、登山道は便利な反面、登山者にいつも同じ条件を提供してしまうからだ。この性質の強弱は事前情報の入手度合いによっても変わってくる。一般登山道を外れたとしても、メジャーなルートで先行者の記録が豊富に入手できてしまう場合、現場の状況が事前にある程度想像がついてしまう。実際に訪れてみても、なんだか先行者の記録の「答え合わせ」をしているような感覚に陥ることになり、行為としての一回性が損なわれるのだ。情報の手に入りにくい未知の山域の方が、より一回性の程度が強い山行が可能になる。

 逆にこの性質を逆手に取り、同じ場所に何度も足繁く通うことでむしろ変化に敏感になり、その都度の山行の一回性を強化するという方法を取ることも可能だ。登山者は競技場のように既に固定化した対象の中から訪れる山を選ぶのではなく、その山行のたびに毎回異なる対象(山)を見出すのである。

 このように再現性/一回性という概念で見比べてみるとスポーツと登山が真逆の特徴を備えていることがより鮮明に理解できる。もちろん他にも登山を構成する重要な要素で、その中心に冒険性や探検性を挙げることもできるが、一回性の概念を用いることで、先鋭的なアルピニズムに括ることができないような登山も含め捉え直すことができるのではないだろうか。また近年盛り上がりを見せているトレイルランニングなどのスポーツと際どい位置関係にある登山にも、その間に線を引くことが可能だろう。

 積雪期の津軽半島は先行者の記録に乏しく、私の知る限りいくつかの横断山行と最北部の縦走を除き、積雪期に半島全体を縦走対象としたような記録は見たことがない。人里からの物理的な近さ、標高の低さなどから、あまり魅力的な登山対象として映りにくかったのだろう。ましてや稜線上に登山道は乏しく無雪期に気軽に縦走できるような山域でもない。津軽ではこうして保たれた未知性が一回性を強化する方向に作用する。また冒頭に記したように訪れるたびにヤブの濃さ、ラッセルの深さが異なり、その一回限りの条件を登山者に提供してくれる。より”一期一会性”の高い山行が可能だったと言えるだろう。

(2)ヤブ漕ぎとラッセル

 では、積雪期の津軽での一回限りの登山が一体どんなものだったのかを振り返りたい。津軽の特徴と言えば、なんと言っても日本海特有の多湿・多雪で寒冷な気候とブナなどの樹林とその下に密生する笹、灌木類、そして名産であるヒバ林である。低山らしく、あまり尾根筋のはっきりしない、ゆったりした地形も特徴だ。急峻な尾根や深く切り込んだ谷は見かけることがない。この山域の初冬期にあたる年末年始に縦走を試みると、ほとんどの行程でヤブ漕ぎかラッセル、あるいは同時にその両方を強いられることになる。寒冷な環境の中で両脚を雪に沈め、両手で植物をかき分け足先と手を雪で濡らしながら、寒さと疲労に喘いで自ら道をつくり出していくのである。

雪が深い時は一度膝で足場を築く

 ヤブ漕ぎとラッセル。長く登山に親しんだ者にはお馴染みの手段であるが、津軽での山行の本質が一体何だったのかを考えるために、この二つをただの手段としてではなく、むしろその行為の本質として中心的位置をなすものとして捉え直したい。

 津軽山中でラッセルに明け暮れる者は、まず寒さに凍え白い息を吐きながら、雪に両脚を埋めて、視線をくまなく巡らせることで尾根の形状、樹林の配置、目の前の地面の傾斜、雪面の様子から、抵抗(硬さ)を測る。ワカンを装着した脚がどの程度埋まるだろうかなど、主に視覚的労働によって観察を行い、一歩を踏み出す際の足の置き方、体幹を使ったバランスの確保、足を持ち上げて適切な位置に降ろすまでの各関節の適切な動作を導き、かつ行為の只中にも絶えず知覚によるフィードバックによる微修正を行いながら、一見単純極まりない身体行為を成功・持続させている。

 この知覚―行為の連続においては、独語によって展開されるような言語的な意識を中継することなく、直接、知覚から行為へ接続されていく。そしてこの行為の結果、雪上に脚を安定して置くことができる適切な段差や足場が築かれ、「道」とみなせるものになる。この道は登山者にはよく「トレース」と呼ばれている。このように小さいながらも環境をつくり変えることによって歩行を成立させているのである。だが苦労して築いたこの道も、強く吹雪いていればすぐに消滅してしまう。

ラッセルは身体と環境の相互作用的行為である

 ここで最も重要なのは、登山者の環境への一方的な働きかけの結果として雪面に道が受動的に築かれているのはなく、登山者は行為の最中に環境を知覚することによって行為自体をもわずかに変化させている点にある。行為は環境側から知覚として与えられるものに多くを負っている。つまり知覚を結節点・媒介とすることで、環境と登山者の間でインタラクティブ(相互関係的)な作用が生じているのだ。これはヤブ漕ぎでも同様である。ラッセルに比べると痕跡が見えにくいので分かりにくいが、相手を雪から植物に変えて同じような行為を行っている。このような行為は無雪期に一般登山道を歩いただけでは成立しにくい。登山道を用いた登山の価値が低いと言いたいのではなく、登山道を用いた登山の場合は、道の成立を含めた社会的、歴史的背景をかなり広く視野に収めて登山者の行為を捉える必要性があり、一人の登山者と自然環境との直接的関わりを考えるときは、ラッセルやヤブ漕ぎにフォーカスした方がより鮮明に理解しやすい、ということを言いたいのである。

登山者と環境の相互作用的行為によって築かれる「道」(=環境の小さな作り変え)

 蛇足だが、ラッセルやヤブ漕ぎのこのような環境のつくり変えと行為の相互作用関係は、先に登山の比較対象として取り上げたスポーツの世界では許容されていないことは説明不要であろう。行為主体=選手が競技フィールドをつくり変えることは当然ご法度である。

 自然環境を一方向的な働きかけの対象として、主体―客体の関係でとらえる認識の方法では登山におけるラッセルとヤブ漕ぎという行為を捉えつくすことはできない。冬の津軽での登山では、事物の在り方について主体による一方的な認識によって初めて環境側の存在を認める考えではなく、相互作用的な行為、すなわち経験を通じて環境側と行為者側の両者の存在を認めるような考えのほうが、しっくりとくるのである。

 より深く自然環境と関係を築きたいと願う登山者は、きっと無意識にあるいは意識的にこのことに気付いているのではないだろうか。冬の津軽という環境が確かに実在することを、雪と植物との相互作用的な行為を経験することによって肯定しているのだ。私はこのような登山を続けることを通じて自らの世界を構築していくことに密やかな喜びを感じている

ラッセルによって冬の津軽という自然環境を深く経験する

(3)登山の社会性

 スポーツとの比較によって、登山において一回性の概念がいかに重要かを示し、登山対象としての冬期津軽半島がいかに魅力的であるかを説明した。その上で、私たちがそこで明け暮れたヤブ漕ぎやラッセルという行為を津軽での登山の本質に据え、その意味を私なりに掘り下げてみた。ここまでは登山という行為そのものにフォーカスしてきたが、これだけで括れない重要な要素がもう一つある。合計3回の登山が全て複数人でチームを組んでなされたという点だ。

 先ほど取り上げたラッセルにおいて、チーム登山であることは大きな意味を持つ。チーム登山ではラッセルによる環境のつくり変えによって生じたトレース(=道)を同行者とシェアすることができるのだ。これによってかなり根本的な戦略の部分でラッセルという行為の条件付けがなされる。単独行の場合、ラッセルはすべて一人でこなしていくしかないが、チーム登山ならば、ラッセルの先頭を交換し合って、一人当たりの体力的な負担を分散させることができるのだ。

 つまりトレースはこのチーム内で共同所有され、その中で公共的な意味を持つ。週末に何パーティーも入るメジャーな雪山ルートであれば他のパーティーともシェアすることになり、より公共性の度合いが高まることになる。この場合、苦労してラッセルしたものにとっては私的所有的な感覚も生まれ、だからこそ「ラッセル泥棒」という概念も生まれることになる。私的な労働力の提供によって得た成果物ということなのだろう。

苦労して築いたトレースはチームで共有する

 いくら冬の津軽の奥深い山中といえども複数人で行動を共にすれば、その内部で社会性が生じることになる。ラッセルに限らずテントでの食事の準備など、あらゆることに分業制が自然と生まれ、そういったことを調整する場面では自ずと政治も成立しているといえるだろう。ラッセルという行為を考察したときにラッセルは言語化される前の段階の知覚そのものと行為の直接的な結びつきによって成立していることを示した。それに対して社会性はそれが成立するために言語的なコミュニケーションを多分に必要とする。テント生活での分業の調整や相談、ラッセル・ヤブ漕ぎの先頭の交代の声かけ、雪質や地形、植生などの観察結果の情報交換、体調等の身体的コンディションの共有など挙げればきりが無いが、このような登山の遂行に必要な意思疎通だけに限らず、登山中に感じたことや考えたことを語ることで、その登山のイメージ像を言語的に生み出していき、それをチーム内で共有・更新する作業も行われている。このようなコミュニケーション行為は当然、チームでの安全登山にとって無くてはならない重要な作業であるとともに、登山の面白さを左右する重要な要素でもある。

メンバー同士のコミニュケーションはチーム登山の醍醐味である

 このようにときに表情などの手段も動員し、主に言語を用いて社会性を築いていく過程そのものがチーム登山の醍醐味なのだ。登山の一回性を重視し自然との深い関わりを求め、その上でパーティー内の社会性の構築を通じてメンバー同士の関係構築を重視するという姿勢がチーム登山には重要だと考えている。

6.最後に

 津軽半島という山域の選定については、日本の沢登り界の重鎮である木下徳彦氏(通称:きのぽん)の発言から大きな示唆を受けている。津軽という地名を登山対象として初めて聞いたのは他ならぬ彼の口からである。貴重なアイディアの提供に御礼申し上げたい。もっとも、彼の想定していたのは最終パートの四ッ滝山~竜飛崎の縦走だったようで、後日、「まさか大釈迦からやるとは思わなかった」と彼の口から聞くことになるとは計画当時の私は知る由もなかった。そんな彼は2022年8月11日、沢の滑落事故で遭難死し、もうこの世にいない。二人で東北の沢や登山道を繋いで100km近く歩いた登山がどれだけ楽しかったことか。この偉大な先輩の山の話からどれだけ刺激を受けたことか。この文章を読んでもらって感想を尋ねることすら叶わなくなってしまったことが本当に残念でならない。心よりご冥福をお祈りする。

 そしてこの登山に参加してくれた大事な山仲間達に格別な感謝を捧げたい。縦断を完結する事ができたのは、準備・トレーニング登山の段階から尽力してくれた仲間達の力に拠るところが大きく、私一人でやり切るには身体的にも精神的にも厳しかっただろう。終始、彼らの理解と協力に支えられた3年間だった。皆それぞれ結婚や転職、転勤、あらゆるライフイベントのただ中において可能な限りの時間と労力、そして情熱をこの登山に注ぎ込んでくれた。皆の尽力に改めて感謝したい。

山仲間がいてくれたからこそ最後まで楽しめた
ようやく龍飛先に辿り着いた時の筆者

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