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「多様性を受け入れる」ことについて

誰かが発した言葉や態度に触れて傷つき、憤りを覚えることがある。怒りや悲しみはときに大きく心を揺らし、そこから逃げてしまいたいと思うほどに消耗する。けれど、怒りや悲しみを体験することで、いまの自分と同じように誰かが何かで傷ついているかもしれないと理解できるのもたしかだ。

ドキュメンタリーやニュース、はたまた知人との会話の中で、自分の知らなかった世界に触れ、わたしの考えていた世界の輪郭が変化することがある。いままでわたしの世界になかった誰かの存在がはっきり色を帯びて主張し始めるとき、それまでわたしの考えていた「多様性」がいかに限られたもののなかのことであったかを知る。

自分の想像力の外側にある傷ついたひとたちのことを、想像する。わたしにとって多様性を受け入れるということはそういうことを繰り返し積み重ねていくことでしかできない。そしてそれには限界があることもまた知っている。

わたしは大切にするものがある。けれどそうでない価値観を持つひとと遭遇したとき、そのたびに戸惑う。普通の顔を装っていても、心のなかは不安で、手がかりを求めてどきどきしている。

みんな違ってみんないいという境地には一朝一夕ではなることができない。おそらく全人類と知り合うことができたとしてもむずかしいだろう。本当の意味で多様性を受け入れるとは、自分の想像力の限界と向き合い続けながら、それでも人類が多様であることを選び続ける覚悟を持つことだ。それはなんと厳しい道なのだろうと思う。

自身のなかに隠された差別意識に気がつくたびに途方もない気持ちになる。その直前まで差別意識なんてないと信じていた自分が恥ずかしくてたまらない。それでもわたしがひとそれぞれが自由に暮らせる世界を望むかぎり、そんな自分のしょうもなさと向き合い続けなければならない、と思う。

ただ、その世界のなかのどこかにはかならず一休みできる場所は必要だ。さまざまな正しさや過剰な装飾、そういうものをいったん脇に置いて、ひとが「ただ、在る」ことのできる、ひとときの祝祭のような場所。わたしが持っている、漠然とした「みんな楽しく生きてほしい」という願いのために自分にできるのはそういうことを考えることだし、それを考え続けていくことで新たに見ることのできる景色があるのかもしれない。

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