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閉ざされた温室のなかのひそやかな営み

毎年厄祓いに訪れている深大寺へ。正月は混みそうだ、仕事で行くタイミングがない、とやっているうちにいつのまにか3月目前となってしまった。

深大寺は護摩焚きでご祈祷してくれる。不動明王に捧げる炎がパチ、パチと音を立てて天井近くまで立ちのぼり、読経の声が重なり、力強い太鼓の音を聞いているうちに、目に見えなかった憑き物が姿を現しほろほろ落ちていくような感覚に陥る。

いつもはご祈祷のあいだずっと正座で過ごすのだけど、いまは立って簡単にお参りをするだけであっけなく済んでしまう。でも、魂入れをしていただいたお札を渡してもらうときに、「新しい一年がよい年になりますように」と言われて、そうか本当にわたしはそれを信じたくて今日電車に乗って来たのだと涙ぐんでしまった。

深大寺の隣には神代植物公園がある。深大寺に行くならついでに初春の花の姿を見ておこうと足を伸ばしたら休園だった。緊急事態宣言の延長にともなって3月7日までお休みらしい。

植物園の脇の小道を歩くと、そこから園内の大きな温室が見える。ドアはわずかに開いていて、植物の色がうっすらと見える。

神代植物公園のTwitterでは、「梅が咲きました」「薔薇が咲きました」という知らせが毎日書かれている。けれどいまのわたしは垣根の、ガラスの向こうの植物の気配しか感じることができない。

ガラスのなかでゆるぎなく四季は巡っていて、花のつぼみがふくらみ、開いては散っていく。明るいつややかな新芽も次々と開いているだろう。世話をしている職員のひとだけが、その色のうつろいを見つめている。閉ざされた温室のなかで行われるひそやかな営みは、客がいてもいなくてもゆるぎない。

わたしの仕事にとって、わたしの暮らしにとって、欠かせないものはなにか。いま我慢しなければならないことは何か。そして他者にとっては、国にとってそれは何か。考えているとだんだんわからなくなってくる。

いまは自分の心が乾いていくことをひとと共有できない苦しさがある。何がよくて何がよくないのかはひとによってあまりにも違いすぎるし、なによりわたしたちは疲れていて、深く語り合うのがむずかしい。他者を尊重すればするほどにわたしは自分のことを語れなくなる。

深い赤のばらはいまどんなふうに咲いているのだろうか。参道沿いにある休業中の蕎麦屋の「おやきあります」と書かれた小さな紙が風に吹かれていてさみしい。

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