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「作ることは祈ること」

制作の参考にしているケルト文化について、もっと知りたいと思い、「ケルト『自然と生命』の芸術人類学」というタイトルのオンライン講座を受けている。初回は太古からの芸術と、ケルト文化の関連性などについて語られた。

そのなかで、先生が「作ることは祈りである」と何度も繰り返すのを聞きながら、自分の制作についても考えをめぐらせていた。わたしが自分の作品について説明するとき、「これは祈りです」と言うことは、あたりまえのことすぎて蛇足なのかもしれない、とか。でも、言葉にしないと伝わらないこともあるよな、とか。

でもまあそれを言うにせよ言わないにせよ、祈りを込めて作っているということについて、つねに自覚的でいた方がいいという結論に至る。祈りという行為は、つよい。物理的に効果がなくても、つよいのだ。

つよさを測るものさしはいろんな形をしているから、使い慣れたものさしで測ったときに「役に立たない」と思えることも、別のものさしで測ったときにはまったくちがう結果になることがある。引き出しの奥にしまってしまうとそんなものさしがあることを忘れてしまうから、ときどき風を通すように引き出しを開け放つといいのかもしれない。

祈ることは誰かを想うこと。誰かを想うとき、その想いはそのひとを祝福することにも、呪うことにもなりうる。完璧でない自分が誰かを想うとき、そこにはあやうさが存在する。「正義は我にあり」では、見落としてしまうものがある。だからこそ「祈る」ことに自覚的でありたいし、光ある方を歩くために、つねに自分の心の弱いところと向き合わなければならないと思うのだ。

あるひとが「Twitterで柊さんのツイートを見ると、すごくほっとする」と言ってくれた。わたし自身、いろんなことで心が乱れて平静でいるのがむずかしいなあと思う日々なのだけど、散歩したら野草に花が咲いているのを見つけたとか、そんなささやかな日常の愛みたいなものを持てるひとに、いつかなりたい、と思う。

個展もあと一週間。次の長野の個展に向けてまた力をためたいと思う。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。