見出し画像

鳴らない音は風景のなかに含まれている

Twitterで、鳴っていない音が聞こえる、ということを書いた。それについて考えたり、ひとと話しているなかでだんだん自分の理解が進んできたように思うのでここに書いておく。

ひとにはそれぞれ受容体としてのさまざまな機能があると思う。どんな機能があるかはひとによって異なるけれど、それを用いてどう生きていくかを考えていく必要がある。わたしは幽霊は見えないし、未来を見通すこともできないけれど、わたしの体に何かの機能が眠っているのならそれをできるだけ育てて、作るものや届けるものにフィードバックさせていきたいと考える。もっとふくよかに、もっとつよく、やわらかく。

では、鳴らない音が聞こえるのはどういうことか。

音について考えながら町を歩いている。いつもと変わらない町並みのなかに、鳴らない音が含まれていることに気がつく。

生まれたばかりの黄緑色でやわらかい葉は、妖精のささやきのような、風に揺れる澄んだ音を持ち、渋い顔をしたゴールデンレトリバーは顔のまわりにたくさんのC2の音を持ち、小さな子どもはみずみずしく高い、転がるような音を持っている。その音はわたしの耳には聞こえないけれど、別の場所で鳴り始める。

わたしはイラストレーターという仕事柄、視覚でものをとらえることが多い。だから風景のなかの色や形に注目して眺めている。けれどその風景のなかには色や形のほかに、音を持たない音も含まれていることに気がついたのだ。そう気がついた途端、目の前の世界がぱあっと開けていく。桃色の花びらの曲線に、重なった葉のあいだからこぼれる光に、うつくしい音が生まれているのだった。

たとえ音が鳴っていなくても、音はそこらじゅうに漂い、宿り、眠っている。荒れた小鳥と目を合わせ、呼吸をあわせながらそっと近づき、気持ちを整えてついにその羽に触れられるように、慎重に近づかないと音はすぐに霧散し、飛び立ってしまう。

人工的な音、自然の鳴らす音、ひとや動物のたてる音、音として認知はできない音、音はそうして複合的に重なりあい、奏でられる大きなシンフォニーのなかでわたしたちは暮らしている。

もし、胸がつまることがあったとしたら、その場所の音のバランスや、自分自身の音の感じ方ーーつまり、ものの感じ方のバランスがうまくいっていないのかもしれない。ライブ前にPAさんが慎重に音を調整するように、音はわたしたちにバランスを届ける。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。