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ある日突然、パラスポーツが仕事になった(6/100)

こんにちは。まえゆかです。
つい先日まで真夏だったのに、すっかり秋の雰囲気になってきましたね。
最近、春と秋がすごく短い気がするので今の季節をしっかり味わう余裕を持って過ごしたいところです。

さて、前回は私がパラスポーツにハマるきっかけとなった出会いについて書きました。

この後、急速的にオタク並みにハマっていくのですが、それにはあるご縁があったから。ハマれる環境があったというのが大きいかなと思います。
今回はそのお話。

世の中が盛り上がった2020招致決定

2013年9月13日の午前5時。
日本のあらゆる会場から、歓声が響きわたった。

そう、東京2020オリンピック・パラリンピックの招致決定の瞬間だ。

もちろん、その時私は都内の会場に・・・・


いない。


(笑)(笑)(笑)


まったく、興味がなかった…
いつ決まるのかも知らなかった…

それもそのはず、まだ国枝選手に会ってないので。笑

パラスポーツは空いた時間のボランティアの一つとしか考えていませんでした。
この時、障害者女子向けのフリーペーパーのボランティアもしていましたが、界隈でも特に話題になっていなかったような気がします。

朝起きて、ニュースみて、「へー!決まったんだ~」って思ったくらい。
たぶん、世の中のスポーツがちょっと好きな人と同じようなリアクションだったのではないでしょうか。

当時から活動していたパラアスリートやパラスポーツ関係者の多くが、招致が決まって、「これで社会が変わる!」って涙した瞬間だったとその後何度も聴きましたが、当時の私は招致に対して無関心。
パラスポーツのボランティアとしてもどうなのかと思います(笑)

そもそも、スポーツビジネスもやってないですしね。
私はただの教育学系の大学院生で、私自身の人生にパラスポーツやスポーツビジネス、ましてやオリンピック・パラリンピックが関係するなんてまったく思っていませんでした。

国枝選手に会った後も、私は大学院生だった

じゃあ、国枝選手に出会った後、仕事として頑張ろうと思ったのか。

いやいや、全然。

仕事にしようなんてまったく。
研究のテーマにはなるかなと思っていました。
でも、私は修士論文では特別支援教育と障害者雇用のことを研究しておりましたし、もう概ね修論の骨子はでき上っている状態なので方針変更は予定せず。

そのまま博士後期課程に進学することだけを決めていたので、受験対策の勉強をしていたくらい。
当時、研究のベースとしてたのがCapability Approachというアマルティア・センやマーサ・C・ヌスバウムの提唱する考え方を用いていたので、この考え方をベースに「パラスポーツ」のことを考えたら面白そうかも~って思っていた程度だと思います。

Capability Approachの考え方はとても素敵で、これからの社会に必要な考え方だと思っているので、これは改めてnote100日チャレンジの後半あたりで触れられたらなと思っています。

流れが変わったのは、決定から半年後

そんな私の人生が変わったのは、2014年の3月。

NPOの代表から連絡をもらいました。

「研究員になれる大学院生を探している人がいるから、履歴書持って3月◎日に△△ホテルまで来てください」

面談の日程はピンポイント。既に母と劇団四季を見にいくチケットを取っていた。
どうしよう・・・

大学教授だった母にこんな話があったんだけどと伝えると
「チャンスがあるなら絶対行くべし!!」
と送り出されました。
(面接終わりで劇団四季に飛び込んで、第3幕だけ観たのはいい思い出)

当日、面接場所と指定された場に行くと、既に代表とその後研究員として所属させていただくことになる組織の代表が談笑中。
履歴書をお渡しして、45分くらいお話したかな…

なんせ、就職活動もまともにせず、教員採用試験も大学推薦枠で受けているので面接に慣れてない…緊張して何を話したのか、全く覚えていません。

その場で決まったのか、後から連絡もらって決まったのか、あんまり覚えてないのですが、審査されたという印象は特になかったので、採用される雰囲気で話が終わったような気がしてます。

とりあえず、その後4月から日本財団パラリンピック研究会の研究員(アルバイト)として雇っていただくことが決まりました。

偶然の偶然で舞い込んだ縁だった

とにかくその時は、状況をよく理解もせずに面接に向かい、研究員として雇っていただくことが決まりました。

何でそのチャンスが回ってきたのか。
後から話を聞くと、本当に単なる偶然だったのです。

2020東京大会の招致が決まり、オリンピック関係者は大喜び。もちろんパラリンピック関係者も。
でも、いざ大会運営に向けて計画を練っていく中で、オリンピックについては過去の知見もアカデミック領域での研究もかなり発展しているけれど、パラリンピック研究というのは学術的な世界ではまだ未発達であることがわかります。
国内でもパラリンピックをテーマに研究されている方はごくわずかだったようです。

パラリンピックの歴史も、第二次世界大戦以降に始まった大会ということもあり、オリンピックのようなレガシー研究が十分になされていない状況。
当時は、2012年のロンドンパラリンピックが素晴らしい大会であったという評価だけが存在し、何がどのように過去の大会と異なり、その素晴らしい成果はどのようにして生まれたのかが明確になっていない状況でした。

2020大会を開催することで何をレガシーとすることを目標とするのか、それを考えるためには、まずはパラリンピックそのもの、そして日本国内のパラスポーツの環境の現在地を知らなければいけない。

わからなくてもいいじゃんって思うかもしれませんが、レガシーというのは思い付きで物事を進めて生まれるものではなく、課題を把握したうえで、解決するための取り組みに注力したことで生まれるものだと思います。

そこで立ち上がったのが、日本財団パラリンピック研究会だったのです。

代表がまず探したのが、パラリンピックを研究している大学院生。
とはいえ、パラリンピックをテーマに研究している教授がごくわずかな状況で大学院で学んでいる人はほとんどいなかったようです。
いても地方大学だったりとかでアルバイト的に携わるのには不向きだったり。
今でこそリモートで働くことは当たり前ですが、当時はコロナ前なので遠隔地で働くって考え方はあまり一般的ではなかったと思います。

ドンピシャな人がいないのであれば、関連する研究フィールドにいる方が探されまして、筑波でオリンピック研究をしている方と、東大で国際政治を研究されている方が研究員として私と同時期に採用されました。

私はというと…

代表同士が元々お知り合いで、何かの会合の折に研究員が見つかっていないという話を聞いた時に、NPOの代表が「うちのボランティアに大学院生がいます」とお話しいただいて、つながった縁でした。

特別支援学校の元教員であったことと、既にNPOでパラスポーツに少し携わっているという点が加点されたのだと思います。
研究領域は、教育学で、教育哲学を一応専門とするゼミにいました。
教育学はパラリンピック研究にドンピシャなわけではないですが、教育と連携する部分は多分にあるということと、特段固定した研究手法やフィールドがあるわけではないので、柔軟に対応できる人員としての採用だったのかなと思います。

他の研究員と比較すると、ちゃんとした学会にも所属しておらず、研究発表の実績もほぼなく、大学院生としての経歴よりも過去の教員経験の方がきらびやかに見えてしまう状況だったのですが、たまたま適した人が見つからない状況で、たまたま代表が情報をキャッチしてくれて、たまたま繋いでくれたらうまくハマった、という感じ。

ラッキー以外には表現しようがないのですが、チャンスが来た時に「行け!」と飛び込んでしまう性格だったことが功を奏したのだと思います。

というわけで、ちょっとボランティアで関わってみようかなーと思っていたら、ある日突然、パラスポーツがアルバイトになってしまいました。
人生、何があるかわかりませんね。

でも、この時もまだ私の軸足は大学院。
研究者として生きていくことしか考えていませんでした。

その後、私の軸足は少しずつパラスポーツに傾いていきますが、そのお話はまた次回。

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