「障害者」ってカテゴリー、おかしくない?(14/100)
こんにちは、まえゆかです。
なんと5日も空いてしまった…なかなか継続は難しいですね。
車いすラグビーのW杯があったり(無事に銅メダル獲得!)、明日から沖縄予選で出張だったり。
会社の仕事も研究員の仕事も細々とやることが多くて日々エネルギーを使い切ってます。
いや、書けない言い訳じゃないんですけど…(言い訳か)
書くことに100%エネルギーを使いたいなと思うと、書ける日が限られちゃいますね。
もうちょっとライトに書き続けた方がいいのかもしれませんが、変な”こだわり”があるのかも。
続けていくことで新たな自分を発見したりするのも楽しいなと思いながら、今日も張り切って書いていきたいと思います!
いやー、長くなった!笑
読むのはお時間のある時に(^-^;)
前回は
さて、前回は私がパラスポーツを仕事にすると覚悟を決めた時のお話。
何で「革命」を起こそうとしていたかということについて振り返りました。
長くなっちゃったので、2つに分けますね~といって、間が空いてしまっちゃったのは申し訳ない…(そんなに待ってる人もいないかもしれない。自意識過剰、笑)
今日はその続きのこと。
「障害者」ってカテゴリー、おかしくない?
今日のタイトルにもしました。
煽ってるわけではありません。
前回の記事やその前でも何回か書いているのですが、私が大学院に入ったのは「障害者」というカテゴリーの持つネガティブな印象を変えたいと思っていたからでした。
この単語って、何なんでしょうね。
特別支援教育に携わっていた時は、正直そこまでこの単語に違和感を持っていませんでした。
でも、パラスポーツに出会ってからは違和感だらけ。
私が特別支援学校で出会ってきた子たちも「障害者(児)」。
私の目の前で、華麗なるパラスポーツのプレイをしている選手も「障害者」。
どちらもこの社会の中で何かしらの不便さを享受している存在ではありますが、同じカテゴリーに当てはめてしまうことに、なんだかすごく雑な印象を受けるようになったのです。
そもそも「障害者」ってなんだ?
内閣府の発表資料によると、日本国内の障害者の人口は、約964.7万人、人口の約7.6%です。
結構な人数だと思いませんか?
障害者雇用の促進とか色々と政府の策も立てられていますが、医療の発達や寿命が伸びたりなどによって、障害者とされる人口は今後も増える可能性が高いと思います。
来年の4月1日から障害者に対する合理的配慮の提供が義務化されることが少し話題になっており、あくまでも私の肌感での個人的な意見ですが、多くの人が「大変だな」と思って重い腰を上げつつあるものの、本当に納得して取り組んでいるという印象は受けていません。
障害者雇用の法定雇用率の上昇についても同じような印象です。
なんとなく「やらねばならない」ものとして、どこかしらに負担を感じながら取り組んでいるのではないかなと思っています。
このままだと、構造的にお荷物感を作り出してしまい、「障害者」対「健常者」という対立した関係を助長してしまうような・・・何かを抜本的に見直す必要があると思っています。
改めて「障害者」の定義って?
先に人口について触れてしまいましたが、そもそもの「障害者」の定義って何でしょう。
障害者の人口について記載された先の数字も、どうやって人数を数えているのか気になったのですが、人口は(推計)って書いてありました。
過去に行った調査の数字を足し合わせているようです。
うーん、定義がわからない・・・
私もちゃんとは知らなかったのでこの機に調べてみたら、こんな資料がありました。
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/dl/s1031-10d.pdf
「障害者の範囲」について厚生労働省が発表した資料です。
障害者の定義を見てみると、障害者自立支援法に書かれている文言はこちら。
読んでもイマイチわかりませんよね;
つまり、身体障害者、知的障害者、精神障害者はそれぞれの福祉法の定義に基づくってことですかね~。
ざっくり理解すると、
身体障害者は、福祉法の別表に記載されている身体上の障害があって、都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けた者。
知的障害者はこれと明確にされていないような気がするのだけど、自立と社会経済活動への参加を促進するために、援助と保護が必要な者って考えたらいいのかな…
精神障害者は、統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者らしい。
これを読んでもさらによくわからないけど、身体障害者だけは「手帳を持っていること」が条件になるようです。
あれ、知的障害と精神障害って認定いらないの??
って思ったけど、そうゆうわけでもないようで。
各行政のサービスを受けるためにはその行政ごとの障害認定を受ける必要があるみたい。
知的障害で言うと、東京都だと「愛の手帳」、神奈川県だと「療育手帳」といったみたいに。
最終的には、障害者自立支援法にある「この法律において『障害者』とは、身体障害、知的障害又は精神障害(以下『障害』と総称する。)があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう。」というのが定義に該当ものなのでしょう。
生活において制限を受ける者、ですね。
とまぁ、結局調べてみたものの、結局「障害者」の定義がクリアにはなりませんでした。💦
でも、世の中の多くの人は「障害者」についてのイメージは持ってるはず。
たぶん、制度設計上で重要なのは法律における定義なのだけど、実生活において障害当事者の生活が良くなるかどうかは「イメージ」の方が重要だと思っています。
何のためにカテゴライズするのか?
生活において相当の制限を受ける者って、めちゃ曖昧だと思いません?
何において制限を受けるかって、その方の障害の程度や環境、状況によって大きく異なると思うんです。
この定義があったとて、私たちは何をしたらいいのかさっぱりわかりません。
何かに困ってる人なんだなってことだけが伝わって、何をしたらいいのかまったくイメージできない。
それって、カテゴリーとして意味があるのでしょうか?
「外国人」というカテゴリー
このカテゴリーって「外国人」ってカテゴリーと似ているなと思っています。
ちょっと前に、オランダから来た研究者と話したときに、面白い質問をされました。
ムムムム…と考え込んだ瞬間でした。
彼は、日本語教室に通っていて「外国人」という単語を知った時に疑問に思ったようです。
おそらく、海外に居たら私自身に対して「日本人である」または環境によっては「アジア人である」という認識は持つかもしれません。
でも、「外国人である」という認識はしないと思いますし、「外国人」アイデンティティというものはないような気がします。
じゃあ、この「外国人」って言葉は何を指すのかって言ったら、英語話者であるとも限定されていません。
インド人もフランス人も、アフリカ人も、みんな「外国人」です。
つまりは、【日本人じゃない人】でしかないですよね。
「外国人」と認識した時、私たちはどうする?
道に迷っていそうだったらとりあえず「英語で」話しかけるかもしれません。
道を聞かれても答えられないと思ったら、目を合わせないかもしれません。
韓国語が話せるとして、相手が韓国語で会話をしているのが聞こえたら「韓国人だ」と認識して声をかけやすくなるかもしれません。
「外国人だ」と思っていた状態では、日本人ではない人ということしかわかりません。
正確には、もしかしたら日本国籍を有する可能性もあるので、この状況だと「日本人ではなさそうな人」ですね。
細かなことは置いておいて、「外国人だ≒日本人ではなさそうだ」と認識する状況があった時に、その人と関わるか関わらないかは、その先の情報(韓国人だとか、英語話者だとか)がなければ判断しにくいカテゴリーであると言えると思います。
このカテゴリー自体は、「~~じゃない人」ということしか伝えてないと思うんです。
排他的なカテゴリーが生み出すもの
配慮をしたくても、「外国人」というカテゴリーだけだと何をしたら良いのかわからないものだと思います。
このカテゴリーで人を判断しようとしたら、環境や状況によってはリスクを避けるために、「外国人はお断り」のような差別を生み出してしまう可能性もあるんじゃないかなと思います。
もちろん、「○○人である」というカテゴリーによって生み出される差別もありますが。。
「外国人」というカテゴリーが「日本人ではない人」という排他的なカテゴリーであるってことを伝えたくて用いた例です。
「障害者」というカテゴリーに対しても同じ印象を私は持っています。
何かしらの制約を受けており、何かでサポートが必要な場面があるということはわかります。
「健常者ではない人」のようにイメージすることはできますが、「何のサポートが必要か」はここからは読み取れません。
どんなサポートが必要かは、個々に異なりますし、環境や状況によっても異なります。
配慮をするために、カテゴライズする必要はあると思います。
障害者も健常者も何もかも一緒って、考えられたら幸せですが、この社会の多くは五体満足の健常者が活動することを前提に設計されてしまっているので、あらゆるところに不都合が生じます。
だからこそ、配慮は必要です。
でも、配慮のためのカテゴライズのはずが、必要な配慮が千差万別で正解が非常にわかりにくい状況になると、リスクを取らないために避ける判断材料になってしまいがちです。
それで生まれるのが「差別」なんじゃないかと思うのです。
「障害者」というカテゴリーに対するイメージが、曖昧で、かつネガティブだからこそ、差別が生まれたり、コミュニケーションを取ったとしても、弱者のような扱いになってしまうのではないかなと思っています。
配慮をスムーズにするために、もうちょっと違うカテゴリーが必要なんじゃないかなと私は思うのです。
パラスポーツは見直すきっかけをくれた
私自身も、特別支援学校にいた時は、重度の障害児ばかりと接していたので、「障害者」というものはすべてにおいてサポートが必要な方だと思い込んでいました。
大学院に進学した後に出会った障害のある友人たちに対しても、過剰なまでのサポートをしてしまい、対等な関係を築けなかったこともありました。
たぶん、当時の友人たちからしてみたら、私の態度はある意味、差別的だと受け止められていたかもしれません。
その頃は、「障害者」に対しては重度障害児のイメージを強く持っていて、車いすユーザーに対しても知的障害児と同じような態度を取ってしまっていたと思います。
車いすユーザーに対しても、「車いすの人」として一括りに捉えていて、手にも障害がある人がいたり、体幹機能のあるなしとか、不全なのか完全なのかとか、さらに細分化されて彼らの状態が異なるなんてことは、全く知らなかったのです。
でも、その違いを知るきっかけをくれたのがパラスポーツです。
競技の違いとクラス分け
マニアックな話になるのですが、パラスポーツを複数見ていくと、車いすの競技であっても対象障害が異なることを知ります。
当初は車いすバスケもテニスも、車いすラグビーも、みんな「車いすの人」だと認識していました。
でも、車いすバスケの選手は基本的に下肢障害。下肢の障害の程度によってクラスが分けられ、持ち点制で競技を行います。
車いすテニスの場合、下肢障害の程度によるクラス分けはありません。
でも、手に障害のある人はクアードという別のクラスに分けられます。
このクラスだと、電動車いすでも出場でき、男女混合のクラスになります。
車いすラグビーの場合、手に障害がない選手は出場資格がありません。
全員、四肢麻痺の条件をクリアした上で、さらに体幹が残っているかどうかとか、腕の機能がどうかとチェックを受けて、クラスがつけられ、持ち点制で競技を行います。
パラスポーツを観始めた時、私は「カッコよさ」だけに目を向けていました。
足が動かないとか、目が見えないとかも認識はしたうえで、競技のルールの工夫に感動していました。
でも、さらに何度か試合を観ていくと、もっと細かくパラスポーツや選手のことを知っていきます。
クラス3.0の選手と、1.0の選手の違いを見て、「1.0の選手の動きが遅い」と始めは思っていました。
でも、クラス分けの制度を知ると、「遅い」のではないと気づきます。
機能的に出来ないことがある上で発揮されたパフォーマンスであり、同程度の障害の選手と比較したら「遅い」と思っていたプレーが一転して「速い」ことにも気づかされます。
自分の中にある「障害者」のイメージがいかにおおざっぱだったか。
自分の中にある「できない」等の評価が、いかに偏った判断基準だったか。
いろんな違いに気づくきっかけをくれたのが、パラスポーツでした。
たくさんの気づき
パラリンピックは、パラスポーツのトップアスリートの舞台です。
彼らは「障害者」ですが、私が当時抱いてた「障害者」のイメージとは大きくかけ離れる存在であることを教えてくれました。
彼らは、「障害者」ですが「障害者の代表」ではありません。
彼らを見て「障害者とは~~な人である」と再認識してしまうのは、間違いです。
私たちが彼らのパフォーマンスから気づくべきことは、彼らは「障害者」でありつつも「トップアスリート」であるということです。
今まで、「障害者」と認識すると、その他のカテゴリーを持たないように思う人がいますが、「障害者」であっても「ママ」である人もいれば、「社長」である人もいて、その中の一つに「アスリート」である彼らがいます。
当然のことなのに、意外と見落としがちであったこの事実を、東京パラリンピックがきっかけに気づく人が多くいるんじゃないかと思ったのです。
そして「障害者」というカテゴリーは、パラスポーツの土俵の上では意味を持たないということ。
車いすユーザーであることは認識しているので、コートの上には段差がありません。
視覚障害であることは認識しているので、ゴールボールやブラインドサッカーのボールの中には鈴が入っています。
コートのラインがわかるように、ゴールボールのラインにはタコ糸のような紐が、ブラインドサッカーのライン上にはフェンスが設置されています。
彼らが障害ゆえにできないことはクリアされたコート上で、彼らは「アスリート」になります。
「障害者」という大きなカテゴリーは、コートの上では何も意味を持ちません。
「障害者」というカテゴリーが、環境によっては違う見方に変えることができるということに気づかせてくれるのもパラスポーツだと思ったのです。
「障害者」カテゴリー、いらなくない?
その上で、私が当時考えていたのは、身体障害者も精神障害者も知的障害も、そのすべてを「障害者」でまとめなくてよくない?? ということです。
雇用を軸に考えてみればわかりやすいと思いますが、
身体障害者を雇用する場合、ハード面で対応が必要になるケースが多いです。
多目的トイレの設置とか、聴覚障害者の方が認知できるようにサイレンランプの設置とか、点字の案内の準備とか。
知的障害者を雇用する場合、作業の指示内容など、ソフト面での対応がより手厚く必要になるケースが多いですし、精神障害者の場合も、体調を考慮した勤務体制など、ソフト面よりの対応が求められるケースが多いと思います。
障害者雇用担当として部署をまとめてしまう企業も多くありますが、ニーズが様々なものを一つにまとめても、対応しきれないケースが多く発生ししそうです。
「障害者の社会参加」もそう。
私も一括りで考えてしまっていたけれど、ニーズは違うのだから、ニーズを切り分けて対応したほうがいいのではないかと思うのです。
その最初の気づきを、パラリンピックは与えてくれると期待して、私はこの世界で仕事をすることを決めたのです。
ゴールは不明、でも気づきが何かを変えるはず
パラリンピックを観ることで、気づきを得る人が増えると思いました。
直接的に私が関わってきた重度障害児の生活が変わるかどうかはわかりません。
でも、障害者というカテゴリーに対して持つイメージは少し変わると思いました。
「障害者」というカテゴリーそのものが変わるというよりも、「障害者」カテゴリーの中が細分化されるようなイメージです。
軽度と重度の障害のある人たちのニーズの違いに目を向けられるようになったら、それぞれの人たちの暮らしは今よりちょっと変わる気がしたのです。
遠回りのような気もしながら、近道のような気もしたのです。
具体的に、こう劇的に変わるんだよ!!
という未来は描けていません。
でも、「障害者」と呼ばれる人たちも、一人一人、障害の状態が異なるからこそ、画一的なサービスでは解消できない不便さがあると思うので、「一人一人違う」ということをまずは知ることが大事だと思ったのです。
でも、ただ伝えてもなかなか人には届きません。
東京パラリンピックをきっかけにパラスポーツを見る人が増えて、感動する人が一定数いて、その中できちんと伝えていけば、ただ声高に叫ぶよりも伝わる人が多いんじゃないかって思ったんです。
それが仕事にしたきっかけです。
覚悟を決めた理由です。
その後、私はパラサポでいろんな事業に取り組ませていただきます。
表向きにはパラリンピックの魅力を伝える仕事でしたが、根底には気づきを得て社会がちょっと変わることを望んでいました。
時に私のやることは、数十人を幸せにするけれど、マスにはインパクトのないことと評価をされます。
でも、それが私の狙いだったから仕方ない。笑
私が具体的にどんなことをしてきたかは、これから先のnoteで書ければと思います。
いつになく長くなってしまった!!
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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