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捨てきれない想い

先日、いつぞやに弾かなくなったピアノを久々に弾いた。やはり年単位で弾いていないと手は鈍って上手く弾けなかった。
過去に弾いたお気に入りの曲を数曲さらうも、曲という体を成していない。

残念ながら、心の感覚や指の記憶、自分の中での最高の演奏の記憶は端々まで覚えていて、余計にそことの距離を感じさせた。この記憶は一番悲しいものだった。

ぼくは物心がついた頃から、心が躍る音楽を聴いた時に見える風景や色味、匂いが好きだった。

それの一番小さい記憶は、母親が自宅でアラベスクを弾いていた時。
わたしは早朝の森の中にいた。しんとした土と水の匂いがする。高く抜けた明るい空からの木漏れ日を一心に浴びながら、軽快な風が頬を撫で、旋律を運んでくる。聞き入っているうち、風に意識を預けると屋内のような、屋外のような不思議な場所に吸い込まれていく。そこは何か大いなる暖かいものに見守られているようであり、人間はもちろん自然さえも逆らうことのできないような荘厳さをもち、窓から降り注ぐ日差しがその大きな存在を人間に届けているような、そんな感じがした。そこから外に出て、キラキラとした明るい、そして優しさを持った陽の光に照らされる。

心が躍る演奏を聴いた時、それは起こる。今でも鮮明に覚えているのは、公園通りクラシックスで聴いた琴鼓'n管、伊奈で聴いた本多俊之たちのライブ、雑司ヶ谷で聴いた佐藤鈴木田中、久喜文化会館のワークショップで目の前で演奏してくれたサックスの笑い声、幼馴染でありわたしのピアノのきっかけになった子の演奏、ピアノの先生が弾いてくれた曲たち。

どれも、風景と、ぞわっとする感覚が、ある。
心の奥深くにある、核のようなものを揺るがされるような。

幼馴染のYくんのピアノは、特に、ゾクっとした。キラキラしていて、バットで頭を殴られたような衝撃が走る。ずっと憧れだった。久しく彼の演奏を聞けていなくて、すごく寂しい。

自分が弾いている時、先生は「ここはもっと木漏れ日がキラキラする」「後光がさして救われるシーン」のように教えてくださっていて、そのおかげもあって、その風景が見えていた。
やっぱり、曲が自分のものになっていく中であの景色に没入できるようになってくる時の感覚が、忘れられない。

本番の発表会の時、本番のステージに立ってからスローモーションのようになったことが数回ある。あれはなんだったのだろうか。あの時わたしはたしかにスローモーションで明るすぎる舞台にいて、ピアノを弾きながら幽体離脱かの如く浮くんじゃないかという感覚の中で風景を薄らと感じながら弾いた。あの時の映像は怖くて一度も見れていない。確かに覚えていることといえば放心状態に少しなったのちに、Yくんの演奏で現実と幻想の狭間に引き戻され、どっと疲れていたということだけだ。あれはなんだったのだろうか。
でももう一度体感してみたい。

ピアノをもっと弾けるようになりたかったという心残りも去ることながら、
一つ大きな夢を叶えずに終わってしまったことがずっと心残りだ。
Yくんとの演奏。ずっと夢見て、憧れていたけれど、彼は幻想即興曲を一度聴いて弾けてしまうような、誰がどう見てもすごい人だった。わたしなんかが追いつけるわけもなく、その夢は叶えずに終わってしまった。

今からまた練習をして、かつてのわたしを今のぼくが超えられたなら、叶うだろうか。
叶わなかったとしても、あのピアノをもう一度弾きたい。
少しずつ練習して、取り戻してみようと思う。
がんばれるか。
否、あの記憶があれば勝手に向かうだろう。

今のぼくなら。

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