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越前リョーマ考(1)テニスに言葉はいらない。テニプリの「語られない」余白を埋める

許斐先生のインタビューを正確に引用したいだけのために公式ファンブックを買い揃えましたが、最後のページに書かれているイラストがあまりに良すぎて心臓が止まるかと思いました。
これから始まるnoteは二次創作肯定も含む偏向解釈になりますので、原作至上主義の方・テニプリに女の子は不要と思われる方・趣旨に合わないなと思われる方はそっ閉じをお願いいたします。


テニスに言葉はいらない


昨年末からある方と自作品(二次小説)についての意見交換というか、メッセージのやりとりをさせていただいています。
二次小説という分野で越前リョーマの輪郭や内面を書いていくにあたり、私は自作中の彼に「強さの意味の希求」「悩みや葛藤への対峙」という大それた課題を授けてしまいました。それが解釈としてアリかナシか、みたいな問答をする中で
「なぜ原作の越前リョーマは、悩んだり壁に当たった時に壁打ちで発散しようとするばかりで、自分の思いを言語化しないのか」という質問に対し、先方からこのような回答をいただきました。

 我々が言語化できない「感覚」を伝えるには、同じく相手にも「感覚」で感じてもらわなければならない。そのためには「言語化しない」という選択をすることで、相手の「感覚」自体を呼び起こさなければならない。言語化してしまうとその言葉の「枠」内に囚われてしまう可能性があるから。だからしゃべらない。

DMより一部引用

私はこのご返答にものすごく納得しました。
「『言語化しない』という選択をすることで、相手の『感覚』自体を呼び起こす」
「言語化してしまうと、その言葉の『枠』内に囚われてしまう可能性があるから。」

これは越前南次郎が、全国決勝前に軽井沢の山中でリョーマに伝えた言葉、「目に見える側に囚われてるようじゃ まだまだだな」と同じ意味を含んでいるように思います。
また南次郎は幼いリョーマ(とリョーガ)に対し、「テニスに言葉はいらねぇ」とも言いました。テニスをすることを通して、言葉に依らない感覚で相手を感じろと。
それらの言葉が象徴している通り、「テニスの王子様」とは、あえて「表面上に見える、わかりやすい言葉では語らない」作品のようです。

「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」
「いちばんたいせつなことは、目に見えない。 忘れないでいるために、」
王子さまは繰り返した。

「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」
キツネは言った。

星の王子さま(新潮文庫)より引用

「(天衣無縫の)秘密」を追求しようとするリョーマに対し、「目で見ようとするな、目に見えない側にある物事の本質を見ぬけ」とアドバイスを送る南次郎ですが、この超有名な一節を見返していくと、南次郎は父というより最初から神視点(キツネ)なのかな、という気もしてきました。何かと意味深すぎる。

越前リョーマは「語らない」

リョーマの言葉が少ないのは、決して当初の設定が「王道主人公のライバル的な存在」だったからでも、そのためのクールで寡黙な性格設定によるものでもなく、彼が「テニスそのもの」であり、作品のテーマを体現する存在だからなのかもしれません。
仮にも主人公という立ち位置を与えられていながらも、越前リョーマが自分の心境を語るようなモノローグはほとんどない。
最近はGoldenAge372から始まる不二先輩とのS2争いで珍しく試合中のモノローグが書かれていましたが、それを「珍しい」と思うくらいに、これまでの越前リョーマは思考の詳細な説明がなかったように思います。

また彼については、成長のプロセス(試合中の経過)を描かれていないシーンも多いです。あえてプロセスを描かないという表現方法をとることによって、欠落したシーンは読者の「もっと知りたい」を煽り続け、求心し続けるためのギミック(仕掛け)になりえている。
存在しているはずの思念や、連続しているはずのシーンが「ない」こと。
それは明確な意図を持って置かれた「無音の余白」。

たとえばGenius43、高架下での野試合のあと、リョーマは『強くなりたい もっと…もっと!!』と心の動きを初めて顕にするのですが、「何がどうなって、リョーマが負けた」のか、手塚とリョーマと大石先輩以外に知る人は誰もいません。衝撃的な零式ドロップが目眩しのように私たちの思考を遮る一方で、それまでとは違う情熱的な野心を灯した瞳や表情そのものがストーリーを新しい段階へと押し進めます。
語られる言葉が少ないからこそ、リョーマの心境の変化は劇的で、短いセリフがより印象深く伝わってくる気がします。
そして読者は語られなかった空白に「2人の試合で何が起こったのか、知りたい」という欲求を引き摺り出され、その後20年「リョーマと手塚の再戦」を楽しみに待ち続けています。すごくないですか。


手塚との野試合がそうであったように、新旧「テニスの王子様」には作為的に言葉や経緯説明のないシーンが置かれています。
大切な場面で言語化されない、目には見えない側に、本当に読み取るべき本質が置かれている。それを捉えることができるのは言語化できる思考や分析ではなく、研ぎ澄まされた感覚なのだとすれば、それは越前南次郎がリョーマにずっと教え続けてきていた「テニスの本質」そのもののようにも思います。

テニスに言葉はいらない。
だからリョーマは必要以上に喋らない。

喋らないことで生まれる「静寂」という余白が、物語の奥行きを無限に深めてくれる。リョーマの物語はまだ終わらないのだと思わせてくれるし、読者側に委ねられたその余白に物語の余韻が響く。

意図的に省略された、描かれなかった場面や言語化されないセリフは、まるでオーケストラの楽譜に置かれた休符のように、意図した静寂(余白)をもって「幕間」の想像の余地を私たちに預けてくれています。
大切なものは、目には見えない。
私たちは、それを受け取る感性を試されているのかもしれません。
あれこれ考えて理論立てるのでなく、磨き上げられたセンスと感覚でその静寂を受け取れ、と言われているようにも思います。

Don’t think, Feel.

最初に触れたように、南次郎は「物事の本質を見抜けよ」とも言いました。リョーマが求めている「強さの秘密」はその先にあるものだと。

テニプリは理屈ではなく感覚で読む作品だと思います。
リョーマの試合に限らず、大切なシーンはセリフやモノローグで語られるわけではなく、絵の説得力をもって見せられる。読むべきなのは表面上の情報ではなく、彼らの表情。
限界まで削ぎ落とされた言語表現は圧倒的画力で描かれるキャラをひきたてて、ストーリーの輪郭を際立たせ、深みを増していきます。
目に見えるわかりやすい情報だけに振り回されていたのでは気づかない、けれど確かにそこに存在する彼らの思念を内包した画面の数々。言葉も説明もないシーンにこそ私たちは魅了され、ねじ伏せられています。


もちろん基本的には(?)スポーツを描いているのだから、スピード感や爽快感を演出したいために、試合経過が省略されたり、セリフや文字量を抑えられているのは当然のかもしれません。
特に旧シリーズでは「プロセスを描かないようにしていた」という原作者のコメント(新テニスの王子様公式ファンブック23.5巻)がある通り、全国大会までは物語の疾走感や求心力を優先して描かれてきたようにも思いますが、新テニになってからは逆の傾向の試合も描かれるようになりました。
たとえば新テニスの王子様・U17WCドイツ戦、平等院VSボルクの試合などは、壮大な過去の回想を挟みながら平等院の背負う覚悟を克明に描かれます。
セリフや説明で平等院の内面が詳細に描かれている一方で、試合としては大味というか、スポーツらしいスピード感にはブレーキをかけてしまっている気もします。ただ、神がかった画力と「プロセスの抹消」という構成力がそう思わせないほどに力強く物語を牽引するので、それには気づきにくい。
画面上の派手な演出と詳細な語り口はまるでマジックとか推理小説のトリックのようです。そしてもしかすると、私たちの目をもう少し「本質(作品の帰結)」からそらしておくための先生流のお遊び、ファンサービスなのかもしれません。

平等院や不二先輩のように、新テニで「詳細な説明」がされたキャラについてはリョーマたちより一足先に、彼らなりの到達点にゴールしまったような気さえしてしまうのですが、リョーマのゴールはまだ見えません。彼の中には言語化されていない余白があるからこそ、無限の可能性を感じることができるともいえます。

そしてテニプリには、先生が用意してくれている余白がまだまだたくさん隠されている。私たちはその余白探しを楽しみながら、今日も沼に沈みます。

目に見えない側を、見ようとすること

少年誌でずっと漫画を描いてきて、「主人公が命をかけてヒロインを守る」それに勝るものはないと思いました。そこが一番ワクワクする。自分がそうだったので、そのワクワクを皆さんに伝えたいなと。ただ「テニプリ」はその部分には触れずにきました。リョーマくんを大好きでずっと応援してくださってきた人たちがいるので、見せ方はすごく気を遣いました。でも、実際は桜乃を守るとはリョーマは一言も言っていないですし、たまたま一緒にいただけで見方によっては守っている。その微妙なラインの駆け引きは挑戦でした。今まで描かずにきたところなので、すごくデリケートに作りました。


映画『リョーマ!』はテニプリ新時代の幕開け!原作者・許斐剛インタビュー
2021年9月3日

「リョーマ!」公開時のこの先生のインタビューが好きすぎてまた引用してしまうのですが「その部分には触れずにきた」「今まで描かずにきた」と先生がおっしゃっているように、リョーマと桜乃ちゃんの物語は「テニプリ」では描くことを選ばれなかっただけで、水面下にはちゃんと二人の日常(秘密?)が存在しているのだなということがわかります。

「テニスの王子様」では、作品自体、そしてたくさんのキャラそれぞれに綿密な背景設定ががあり、許斐先生の中では、彼らひとりひとりがリアルに生きている人間であるくらいの歴史と背景、そしてカルマをもっているのかもしれません。
ただそのほとんどは水面下に沈んでいて、表面に見せられているのはごく一部にすぎない。

原作マンガで描かれる部分、
ファンブックで教えてもらえる部分、
アニメで見せられる部分、
ミュージカルで演出される部分、
キャラソンで歌われる部分など
それぞれが、何のどの部分を表面化させるのかについて綿密に計算されていて、
「見せない」「触れない」「語らない」ことを選択されたからこその価値もある。


そうやって原作者が言語化しないできた「物語の余白」を周りのファンが勝手に考察したり、私みたいに二次創作の中で勝手に設定を付け足したり、あれこれ理由をつけて論ずるのは本当に余計なお世話なのかもと思います。
「見せる」ことを選ばれていないキャラの内面についてあれこれ考えたり創作したりすることは、演劇を見ながら俳優のプライベートを詮索したり、劇場の舞台裏を覗こうとするくらいに興醒めなことなのかもしれません。
なのでこうして考察を書いていること自体がすでに矛盾してるのですが、論理的にテニプリを解釈しようとすると、おそらく解釈する側が破綻してしまうでしょう。乾先輩たちのデータテニスが結局はリョーマの「感性のテニス」には勝利できないように、テニプリは「理屈じゃない」のです。
思考の枠にとらわれない。言葉の枠にとらわれない人こそが本当の意味でテニプリを楽しめる。「考えるな、感じろ」というか。


けれど
音楽に意図的に休符が置かれるように、
デザインに意図的に余白が置かれるように、
テニプリはあえて読者に余白を残している。

委ねられた「想像の余地」はこんなにも私たちを夢中にさせる。


作品に置かれた「無音」と「余白」、その余韻に想像を巡らせることこそが二次創作の醍醐味で、上質なホールで音楽を聞いた後みたいに、いつまでもその余白に浸っていたいと思わせてくれます。

「もしも、こうだったら」から派生するものは、きっとそのすべてどれもが正しくて、そして間違ってもいて。
けれどそういう余白を埋めることも「目に見えない側を見ようとすること」だと勝手に解釈し、個人の創作をひそやかに楽しんでいけたらなと思っています。

けれど本当は、そういうのも全て、原作(神)の掌の上なのかもしれないですね。