見出し画像

新テニ論考:W杯決勝戦は中学生たちのアイデンティティ喪失と新生の物語(1)

ヘッダー画像に盛大なブーメランをいただきながら、SNSに向かう心はいつも瀕死です。

装丁関係で新規フォローしてくださった方にはまずお詫びをしなければなりませんが、基本「越前リョーマとテニプリの行く末について偏向考察する」ことを目的としたnoteなので、今回は装丁の話などなにひとつありません。ごめんなさい。いつか既刊の振り返りはするかもだけど、新刊用の小説ができてないので新刊はきっと遥か先です(装丁だけ先に妄想している)

なにごとにおいてもリアタイということが不可能な次元でぐるぐるしてる日々のため、本誌発売から2か月以上遅れての所感になります。感想というよりテニプリという原作作品のテーマを掘り下げ、無理やり文学性を見出していくための投稿になってしまいました。

言い訳ついでにいうと8月号最新話の内容には追いついておらず(この時点で未読)ミリほども触れていない状態で書いています。越前家のことにはまだ踏み込みも出来なさそう。
今回の記事の内容はコミックス最新巻(42巻)に収録されていますが、試合内容はネタバレ気味なのでご了承ください。また内容については個人の感想・解釈になりますことをご理解くださいませ。

この記事の要約(初読後メモのスクショ)

本誌読んだあとで夜中に🧦投下した長文メモ。コピペができなくて書き直していたら大変なことになってしまった
マルスちゃんについてのあれこれ。
ここまで書き切るには一万字では足りない

ということで以下は上のメモを掘り下げて自分の解釈に落とし込んでいく作業になります。そもそも同じような予想をこのnoteを始めた頃にも書いていました。

この解釈の軌跡を、実際の試合(原作展開)とも照らし合わせながらさらに深めるような作業なので以下大変に長いです。

決勝スペイン戦を通してテニプリはどこへ向かうのか

SQ8月号が発売されました!!(過去形になった)

連載25周年&越前リョーマの試合が始まる8月号は、テニプリの原点ともいえる青学レギュラーメンバーの集合イラストです。ここでは越前も日本代表のジャージではなくて、青学のレギュラージャージでの登場。なんと手塚部長もいます。胸熱。

作中の時間の流れが超遅いのでびっくりするけど、25年連載していて作中の時間の流れはわずか8ヶ月。越前リョーマはまだ中1です。けれど本誌連載を追っている読者にとっては、彼が部活のレギュラージャージを着て全国大会を戦っていたのですら、もう16年も前のことなんですよね…
日本一から16年間かけて、越前リョーマとU-17日本代表は世界一に王手をかける最終決戦までたどり着き、その間数々の伝説と逸話を残してきました。
許斐先生は自他ともに認める超エンターテイナーなので「作品にどんな想いを込めたいか」という自分軸と同じくらいに「一般読者が作品に期待するものは何か」「コアなファンが期待するものは何か」という他者視点を持ち続けておられる稀有な方ではありますが、まだ「やりきれていない」と思われていることもたくさんあるのかもしれません。

作中時間ではこの決勝の数日前、準決勝ドイツ戦がSQで連載されていたのは2021年のことですが、ちょうどその時期に公開された『リョーマ!新生劇場版テニスの王子様』のインタビューで、先生がしきりに仰っていたことを思い出します。

「(公開当時は「22年」という)歴史があると、どうしても敷居が高くなっていて、『テニスの王子様』を知っていても『途中から見られないな』というのが多い」
「(映画リョーマ!は)『テニスの王子様』の原点回帰
「『テニスの王子様』の歴史をぶっ壊す

2021-09-04 12:27ORICON NEWSより引用

というメッセージ。
(まさに「テニプリって…あれでしょ、2.5次元か男子かぷ…?」「まだ連載してたの」「テニス自体ミリしら」「非オタには敷居高え」という非常に程度の低い認知状態だった私は、この映画によってぶち壊された敷居を越えて沼に落ちたので、先生の読み通りだったわけですけど)

制作総指揮という全権限を主導する立場にある原作者が「原点回帰」を目指し、「歴史をぶっ壊す」と宣言すること、
それは裏を返せば「今のテニプリは自分の向かいたい先とは違ってきている、軌道修正したい」というメッセージとも取れるのではないかなと、深読みしてしまいます。

許斐先生はプロのエンターテイナーとして、商業漫画としての作品とファンが喜ぶ展開を大切にしてくれる人。けれど同じくらい、ご自身の「これを伝えたい」という部分についても、譲らない思いをお持ちになっているように感じます。
世界に王手をかけた決勝戦、連載にもゴールが見え始めてきた今、あたらめて「テニスの王子様」はどんな作品であろうとしているのか、伝えたかったこと、向かいたい方向はどこなのか、ということについて考えてみました。

1.完成されすぎた中学生が決勝で立ち向かうもの

今連載中の新テニスの王子様は「高校生キャラ」も多数活躍するストーリーですが、1999年から2008年までWJで連載していたテニスの王子様(無印)は中学生が主役の物語でした。

13歳から15歳という年齢は、子どもから大人へと移り変わるゆらぎの中で自我を確立していく時期にあたります。この年代ならではの繊細な「暗さ」が描かれないのがテニプリのいいところなのですが、本来ならば、彼らの年代が直面している「思春期」というのは、もう少し陰鬱としていることが多いもの。
初期だと阿久津くんとかダダダダーン!壇太一くんとかは、そういうのの超わかりやすい例でした。阿久津くんはまさに「自分は何者であるか」「これは自分の目指す道なのか」などについての煩悶を力(潜在能力)でねじ伏せてしまうという非常に良くない形で発散してしまっていましたし、壇くんは身体的・技術的な問題からプレイヤーとしてテニスをすることすら諦めかけてもいました。ただこういう精神的未熟さからくる「強さの履き違え」とか「自信のなさ」みたいな、「中学生あるある」なエピソードが描かれることは、テニプリにおいては少数派です。

登場人物の多くは(テニスの才能は言うまでもなく)家庭環境や指導者にも割と恵まれており、幼い頃から本格的に好きなことに打ち込むためのサポートがあるのが当たり前の環境でした。
そのため、特に青学メンバーを中心とした主要キャラクターは鬱屈したり過剰にスレたりすることなくスクスクと育っており、高い自己肯定感や「唯一無二の個性」をストーリーの枠内外ですでに獲得しています。「中学生の物語とは思えない、高校生の話かと思っていた」と言われるほどに、外見、内面とも大人びている。

それはたとえば、「俺はもっと上にいくよ」とか「ワイは世界一のテニス選手になるんや(海賊王的な)」「俺様は跡部景吾だ!(もはや謎)」といった、(ある意味根拠のない)高い自己肯定を備えた自己同一性(アイデンティティ、キャラクター性)ということもできます。
手塚部長などはその次元すら突き抜けていて、既に老成達観していたりしますが、そこまででなくても、中学生の時点で「自分のテニス」に自信を持っているキャラがほとんどで、そして試合を通して「より自分らしいテニス」とはなんなのかを模索していきます。
強さ、から、さらなる強さへ。勝っても負けても彼らは徹底して自己研鑽に励み、自己を肯定し、自己を確立していく。もちろん弱音を吐いたり落ち込んだりしている時もあったのかもしれませんが、たとえ主要メンバーのことであっても、そういうシーンが作中で詳しく描かれることはありません。
試合を通して仲間と鎬を削りながら、より高みへと向かっていく。徹底して「少年時代の光の部分」を描いていたのが無印テニプリの魅力でした。

しかし逆説的な余談にはなりますが、テニプリのキャラの中ではどちらかというと「弱さ」や「影」の部分が垣間見えた対戦者=「敗者」キャラの方に人気が集まりやすい気もするのです(不動峰中とか幸村さんなど。跡部様すらキングでありながら敗者である)。
共感、という意味ではやはり、弱い部分やリアルに近いメンタルを見せてくれるキャラに感情移入もしやすいし、弱い敗者が勝利を目指して立ち上がる姿勢を応援したいと思うものなので。

話を戻して新テニスペイン戦。
この大切な決勝に選ばれた中学生が「跡部・遠山・越前」というメンバーだったことを(越前は物語上必須としても)すごく意外だなとずっと思ってたのですが、S3、D2が終わったところで、なんとなく方向性が見えてきた気がしました。
跡部景吾様。そして遠山金太郎。
キャラクターは全然違いますが、この2人はそもそも常人離れした鉄壁の揺るぎない自我を既に確立していて、越前とは違う意味でテニプリのトップに君臨してきた王子様たちです。
この決勝S3、そしてD2を通して、この2人がこんなふうに描かれるとは思ってもいませんでした。

2.壊れたテニスラケット

テニプリという作品はテニス漫画ではありますが、作中で非常に多くのものが壊れる、もしくはプレイヤーが身体的にダメージを受けます
けれどモノの大小に関わらず、そのほとんどのものは即時撤去及び修理されたり、ありったけの同じラケットがあったり、キャラの身体が負傷しても致命的なダメージを負うことなどなく、たとえ不治の病であろうとも回復し、一度は死亡診断書が書かれようとも蘇るのがテニプリの常でした。こういった約束されたハピエンがある安心感がテニプリの良さなのですが、
けれど今回、決勝戦D2でとうとう、代替品すらないものが壊れてしまいました。

金ちゃんの宝物だった、木製ラケット。

構想当初は明るい正統派主人公としてキャラ設定されていた「金ちゃん」、リョーマのライバルである遠山金太郎くんが使用しているこちらのラケットは、
リアルには先生がお父様から譲り受けた大切な逸品。そして作中ではリョーマの父・南次郎が現役時代から使用し、金ちゃんの師である元ダブルスの世界女王・屋久杉麗華お婆さまが彼に託した遺品です。

さらっと書いたけどすごくないですか。
このラケットは主人公であるリョーマのライバルに向けて、作中世界でのテニスの神(原作者)、王(越前南次郎)、そして女王(屋久杉麗華)が託した武器だということ
(※伝説の武器を持っているのが主人公ではないというあたりがテニプリの異端さ(面白さ)の一つでもあるんですけど、とりあえずここでは触れずに行きます)。

許斐先生が作中で描く「テニスラケット」というものは、テニプリというバトル漫画における武器であり、キャラの魂そのものです。どんな小さなコマでも決してラケットが簡略化されたり手抜きされることなく、スケッチさながら細部まで描かれて、その精緻さはもはや漫画という領域を超越して芸術的なこだわりすら感じるレベル。
実在するラケットがメーカーやモデルそのままに写実的に描かれ、キャラクターはそれをもって戦いに挑んでいく。彼らが「自分の片腕」「己の武器」とするラケットは、それぞれの性格やプレイスタイルに合ったものが原作者によって入念に選ばれ、授与されています。

なので、先生がお父様から受け継ぎ、作中の重要人物の片腕として作中に魂を込めて描かれてきたこの木製ラケットは、「金ちゃんのラケット」という単なる武器やアイテムを超越して、もはやテニプリのアイデンティティの中核をなす存在であったはず。それなのにその大切なラケットは、決勝の激戦の最中に破壊され、永遠に失われてしまいました。
こんなこともあろうかと彼の先輩たち、四天宝寺中のメンバーがお小遣いを出し合って新しいラケットを用意してくれている、というあまりにも予定調和な展開が最終回の近さを醸し出してさえいるようで感動を通り越して悲しみすらありましたが、そうまでして大切なラケットを破壊しなければならなかった理由とはなんなんでしょうか。

3.「セイギノミカタ(仮)」が「正義の味方」として新生するとき

遠山金太郎くんという子は「実は主人公設定だった」という通り、最初から底抜けに明るい性格と天性の才能を備えて登場した、リョーマのライバルでした。
金ちゃんって4月1日生まれなので、全キャラの中では一番年少さんなんですね(最初勘違いして、中1の中では一番年上だと思ってたら実は4/1生まれなので小6と同じ年齢ですというご指摘をいただきました!すみません修正しました;;)

そのせいか、誰よりも少年ぽいというか純粋で、突き抜けて幼い印象があります。
許斐先生が連載タイトルにも使われた『セイギノミカタ(仮)』というキャラソンの歌詞がそのまま「金ちゃん」だなあと思うのですが、本当の意味で世界を知らない少年だからこその万能感がなんとも愛しく心強く、まさに天衣無縫。
戦隊ヒーローに憧れる5歳児の男の子が、自分もそうなれると心から信じ込んで「試合しよ」「助けたる」とか「日本一」とか「世界一」とか心の底から言えてしまうような、純粋無垢な心があるからこその心の強さを備えています。そんなキラキラな心を彼の天性の才能が後押ししてくれて、いい意味での「根拠なき自己肯定感」を持てている男の子。

けれど彼のそういった、ある意味とてもわかりやすい主人公性というものは、やはり「セイギノミカタ(仮)」であったのかなと思うのです。
「ワイは強い」「世界一になるんや」と正義の味方を豪語できるだけの実績や裏付けがないままに、才能と勢いだけで世界の舞台に立ってしまった感じ。
彼の正義が(仮)だったのは、たとえば
テニスの才能に恵まれてすぎていて負けを知らないからとか、テニスを始めてまだ8ヶ月あまりで経験が圧倒的に足りないからとか、才能に頼った力技で規格外のテニスをしているからとか、色々理由はあるのかもしれません。
けれど一番の原因はやっぱり「心の幼さ」のせいかなと思っています。

これまではずっと、彼の幼さを陰日向でサポートし、守ってくれる人がいたからこそ、思い切りコートの中で戦えていました。それは師であった屋久杉麗華おばあさまや四天宝寺中の先輩、そしてダブルスパートナーの大曲先輩といった人たち。作中で家族の姿が描かれることはなかった金ちゃんですが、代わりに保護者がわりに彼のテニスをバックアップしてくれる人たちに、コートの外でも中でも恵まれていたわけです。
彼は子どもで、無条件に「愛を与えられる人」「守られている人」だったからこそ、純粋なる「セイギノミカタ(仮)」でいられました。けれどこのD2を通してこれまで自分を守ってくれていたものを失ってしまいます。

そのひとつが木製ラケット。
武器であり、テニスの神や偉大な先人から譲り受けた形見であり、彼の「テニスプレイヤー」としてのアイデンティティを体現するかのような宝物。託してくれた人の思いを胸に強く在れるそのラケットがこのシーンで壊れてしまったのは、このラケットが金ちゃんにとっての「守ってくれていた保護者そのもの」、父母性の象徴のようなものだったから、なのかもしれません。

もうひとつは、ダブルスパートナーの大曲先輩です。
自他ともに認める「保護者枠」として金ちゃんのパートナーに名乗り出た大曲先輩ですが、精神面がまだ未成熟な金ちゃんにとってはまさに必要不可欠な、コート内での父母でもありました。
その大曲先輩は試合中に彼をかばって負傷し、あまつさえ、先輩のアイデンティティそのものである「二刀流」すら、パートナーに思いを託すためにあっさりと手放してしまいました。大人だ。

金ちゃんは試合中、これらの「自分を守り、活かしてくれていた存在」が目の前で破壊され、傷つけられていくのを目にします。純粋無垢だからこそ強くあれた『子ども』の彼が、父なる(母なる)存在を失うとき。
それはある意味暴力的ともいえる喪失だったわけですが、遠山金太郎というプレイヤーの子ども時代を強制的に終わらせて、次なる進化へむけて成長するために必要な喪失だったのだろうと思っています。
そして今度は「今度はワイが守る番や」と、自分が大曲先輩を守るために戦う。

大曲先輩は作中キャラの中でも突出して利他の心が強い、精神的に大人な方だなと思っていますが、そういう「自分以外の誰かを活かすために戦う」テニスで自分を守ってくれていた先輩の思いをちゃんと受け取って、金ちゃんはきっと生まれて初めて「誰かを守るために」戦うことになります。
(テニプリはテニスという超次元のスピードの中でこういった精神面の成長が行われるためか、その思考の経緯が詳らかに描かれることはありませんが、そのかわり「己のためではなく、誰かのために強くなる」【心強さの輝き】というわかりやすい視覚的な精神派生を身につけていきます)

挫けることも洗脳されることも絶対にない、まっすぐな心の強さ。
それらも確かに「セイギノミカタ」の条件でもあるのですが、庇護者のもとで才能のままに暴れているだけのときは、まだ本当の意味での「正義の味方」にはなりえませんでした。
たとえばセダくんのように卑劣に暴力的に大切なものを奪おうとする相手を前にしたとき
手練手管で技術的にも精神的にも彼を上回るマルスちゃんを相手にしたとき
もしもこの試合が、ダブルスではなくてシングルスであったなら、金ちゃん一人で乗り越えることができなかったかもしれません。

「正義の味方」にはひとりではなることができないから。


そこに大曲先輩がいたから。
同じコートの上でともに戦う相手に「守られている」のだと知ったからこそ、「誰か守るために」戦うことの意味を知ることができました。

そしてもうひとつ、
自分のアイデンティティそのものだったラケットが失われてしまったとき、即座に手を差し伸べてくれる仲間がいたから。四天宝寺の先輩たちが金ちゃんのことを「四天宝寺の宝」として愛し育ててくれていたこと、宝物とはラケットではなく自分自身のことなのだという思いを受け取る儀式が、彼の成長のためにはどうしても必要でした。
「自分がスカッとするワンマンテニスの結果、チームの勝利がある」のではなく「誰かの思いを背負って、自分の足で立つ」ことにも意味があるのだと、知ることができた。
それにはやはり、テニスの神々から無条件に与えられた父母性の象徴であったあの木製ラケットは、ここで壊れなければならない運命だったのだと思っています。

4.武器を捨て、父を捨てよ

試合後のシーンでは、彼のために作詞作曲されたキャラソンがBGMで流れます。

自分の強さを信じられなくなっても
お前の強さを信じる人が待っているんだ
だから限界まで両手を伸ばせ
その手のひら掴む友がそこにいるだろ?

「Wild」 作詞:杉本ゆう

スポーツ漫画としては当たり前のことのようですが、ハイパータレント中学生として「当たり前の少年期・思春期」をすっ飛ばして世界の頂点に至っている金ちゃんにとっては、ここがほんとうの意味でスタートラインになるのだろうなと思いました。

「ワンマン」とは「セイギノミカタ(仮)」であること。
庇護者のもとでまずは全力でテニスを楽しみ、自分がヒーローであるというアイデンティティを身につけること。天衣無縫の気持ちを身につけること。
逆説的なようですが、金ちゃんにとってはそういう「子ども時代だからもてる独りよがりの強さ、アイデンティティ」のもとでテニスをする時期は必然でした。
けれど、あまりにも早いスピードで世界の頂点に王手をかけてしまった代償として、この決勝でそれを喪失する。
喪失のひとつは武器であり、もうひとつは父母性という庇護者の存在だったわけですが、そのふたつの喪失があったからこそ(そして敗戦という結果があったからこそ)、彼は新生・遠山金太郎として本当の意味でのテニスプレイヤー、正義の味方として進化への一歩を踏み出すことができたのだろうと思っています。

それまでの金ちゃんに対し、保護者であった白石先輩は
「今のままでは越前クンには勝てへん(台詞うろ覚え)」と言っていましたが、こうやって敗戦を喫し、悔しさを知り、正しい力で他の誰かを守りたいと思う気持ちを身につけた金ちゃんは、より一層成長にブーストがかかっていくのでしょうね。
そういう金ちゃんの将来性を見込んでダブルスに指名した先輩方は本当に大人で、先見の明がある保護者だなあと思いますし、それはすなわち原作者・許斐先生による予定調和の結末でもあるということです。

そしてこのふたつ(武器と父母性の喪失)を軸として残りの二人(跡部・越前)を顧みたとき、そしてテニスの王子様という作品を顧みたとき、決勝スペイン戦で原作者によって破壊され、そして原点に回帰し、新生されていくものたちの道筋が見えてきた気がしました。

ここからS3に戻って跡部様のことに言及したい気持ちでいっぱいなのですが、跡部様のことをここまで詳らかに書く勇気がない(王国民が怖くて泣きそうなのできっと時間がかかります)
あっ、あと大曲先輩やセダくんやマルスちゃんのことももっと書きたいのに全然書けてない(号泣)
そしてもちろんS2、越前リョーマのことについてが本題なので、いずれ書きます。本紙連載ではあれこれ延期されたので本当にほっとしている。

この記事が参加している募集