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映画「リョーマ!」を見ながらリョーガの能力剥奪の意味とテニプリの原点について考える

本当はこのnoteの最初の記事は、越前リョーマ個人のことについて書くつもりでした(下書きに置いてます)。
テニプリのこれからの展開のことを先にふれるのは順番が逆かなとも思ったけど、これも彼を語っていくには必要な内容なのかなと思ったので。なぜなら結論にはヒロインの存在意義があるからです(なのでテニプリに女の子は不要と思われる方はそっ閉じをお願いします)。
そして原作のあちこちに置かれているスペイン戦に向けての布石とかについてはあまり深くは考えられていないので、それについてはココでは忘れてください(?)

映画でテニプリの「原点に立ち返る」とは

通勤中はだいたいテニプリのキャラソンで運転してるのですが、先日は久しぶりに映画「リョーマ!」のDVDを流していました。セリフと音楽がDrivingBGMのつもりなので画面は見てない(はずな)んだけど、ふと思ったことがあって。
ずっと新テニ読んでるからどこか感覚が麻痺していたのですが、そういえば冒頭で幸村さんと対戦しているリョーマ、全米決勝でヴォーンに反撃する南次郎の試合以外、割と普通にテニスしてるよね?と。
(フレームで打つのとかエメラルドさんの斬新なプレイスタイルとかは物理的になんとか実現できそうなので一応「普通」の枠に入っています)。

映画公開にあたってのいくつかのインタビューの中で、許斐先生は「今までテニスの王子様を知らなかった子どもたちにも興味を持ってもらいたい」「原点に立ち返って」ということを繰り返しおっしゃっていました。
テニプリには先生からの楽しいサプライズがあふれているので、どうしても派手な演出の方に目が行きがちになってしまうのですが、ここで言われている「原点」ってきっとそれ(サプライズ系)じゃないんですよね。
テニプリの原点って、先生の中では初期の頃から一貫しているのではないのかなと思っています。

「勝って道を切り開く、そのほうが楽しいじゃん!」

これが越前リョーマのもともとのコンセプト、かつ映画「リョーマ!」のキャッチフレーズとされているように、テニスを通して世界を丸ごと全肯定してくれるような、気持ちのいいカタルシス、ハッピーな気持ちを伝えることが原点であって、強いリョーマくんや敵味方なくかっこいいキャラたちに憧れて「自分もテニスをしてみたい、テニスを楽しみたい」って思う人が増えてほしい、ということかなと。

この「テニプリの原点に立ち返る」映画のラストで、リョーマは『ずっと真剣勝負したかった相手、現役バリバリの親父』とテニスをすることになります。けれど、その対戦では二人とも特別な能力を使ってません。
躍動感あふれる2人のラリーや光を背負ったスマッシュなどは、3DCGだからこそ実現できる、実写かと見紛うほどのリアリティすら感じられる試合シーンになっていて、そこだけでもずっと見ていたいと思えるほどに素敵な試合をしています。
ずっと憧れて、倒したい思ってきた南次郎を相手にしたあの試合は、リョーマにとってもかつてないほどに「テニスって楽しい」を体感できるものであったはずです。

期待に瞳をきらめかせ、背負うものも何もなく、家族と仲間に応援されて、ただ一人のテニス少年として憧れの人と真剣勝負する。それって「純粋にテニスを楽しむ気持ち」そのものだと思うのですが、リョーマは天衣無縫の極みにはなりません。名前のついた派手な技を出し合ったりすることもなく(お互い牽制しあってそういうの出せないのかもしれないけど、そうだとしても)ただ純粋に、ラリーをめちゃくちゃ楽しんでいるように見えます。
映画冒頭では「テニスを最高に楽しんでる状態」の天衣無縫になって、サムライドライブという進化した得意技で幸村さんに完勝したのに、なぜだか最後の、普通にテニスをしているリョーマの方が断然楽しそうに見えてしまいます。

そうだよね。
テニスって特別に得意技とかできなくても、ただボールを打ち合えるだけで楽しいよね。

自分の打ったボールが相手に打ち返されて返ってくる。それをまた相手に送り届ける。ラリーをつなぐことでコミュニケーションが成立する感動。勝敗の結果にとらわれたり、卑怯な裏工作をしたりすることなくできる「テニスの喜び」が、この最後のシーンに集約されている。
最後の南次郎との親子対決は、これまでテニプリという世界を構築してきたすべてのコンテンツ(歌とダンスとオールキャラ)に祝福されて、ひたすらハッピーな世界で繰り広げられ、勝敗もつかないまま終わります。
見ているだけで、なんだかわからないけど心が震えるほどにただ楽しい、という気持ちに満たされる。プレイヤーも観客も、世界のみんなが楽しい時間を共有できるテニスの試合。テニプリの原点そのものが具現化されているような、素敵なエンディング。

リョーガの能力剥奪はインフレの強制終了

その親子の試合を天空から、ひとりだけ神視点で見ていた越前リョーガ(なぜ彼がひとりその場所にいるのか、それについては今考えてはいけないと思ってひとまず思考をストップしました。Don’t Think, Feel.)。
原作時間軸の兄・リョーガのテニススキルは「相手の能力を喰らう」こと。まだ詳細に描写されていないので全貌は明らかではないですが、多分だけど相手の能力を無効化する&さらには自分のスキルとして取り込んでしまう、といった感じでしょうか。

決勝スペイン戦のS2(S1かも)で、リョーマは多分リョーガと対戦することになります。そこでリョーマは自分の持ち技を全部奪われてしまうのではというのが大方の予想です。
これまで想像の限界を突破してインフレし続けてきたテニプリ(異能力バトル)の最終形、リョーマのラストバトルの相手の技が「能力剥奪」。波動球が百八式まであると言われたときくらいの絶望感で思考が止まりそうです。

テニプリにおける「能力」って、現実のテニスでは実現不可能だけれど、漫画の中では使いこなされているテクニックや精神状態(天衣無縫とかシンクロとかスタンド能力とか)、名前のついた得意技とかのことですよね。
一般には作品そのもののイメージとしても扱われてきた感もあるその「能力」が奪われる。
相手がリョーマでなくても、例えば今回はリョーマに負けて代表の座を譲った不二先輩がリョーガの相手だったとしても、それが跡部様や徳川さんだったとしても、彼らの自然摂理を無視した革新的な技の数々は全部リョーガに奪われてしまう。苦労して生み出して名付けた数々の技も、速攻でリョーガのものとなり、返されてしまうはず。

そしてリョーマはおそらく今回も「リョーマが負けたら優勝はできない」という、日本代表としての重圧を背負って試合に望むことになるのかなと思いますが、あらゆる能力を奪っていくであろうリョーガの前では、リョーマは、普通の(?)テニスプレイヤー、ただの負けず嫌いのテニス少年としてリョーガの前に立つしかなくなります。「テニプリだから」と受容されてきた、超絶技巧、オーラや能力が席巻する世界すら全否定してくるリョーガに、主人公はどんなテニスで挑むのでしょうか。

能力のインフレに関しては読者の皆様それぞれにいろんな見方があると思うので、私の個人的な意見、ということでご理解いただけたら助かるのですが、
私はリョーマに関しては、これ以上何か派手な「能力開花」「進化」というものは、もうなくてもいいのかなって思っています。
無印で無我の境地とか天衣無縫の極みに至った時は泣くほど感動しました。破壊から希望を生み出した時もさすが主人公と尊敬しました。でももう、これ以上の異能力は、彼にはなくてもいいのかもと。
表面上の派手な演出や進化ではなくて、もっと作品の主題、原点に触れるような部分に、彼の存在意義があると思っているので。
(あ、でも徳川さんの阿修羅の神道系の進化とかは別の次元で完成させてほしいので、原点とかとは別物として読みたいです)

そしてこれもあくまで仮説であって、個人の願望と流してもらえたら助かりますが、リョーガの「能力剥奪」というスキルも「奪って自分のものにする」という単純なチート能力なだけではないように思えてきました。
これまで秘密裏にされてきた越前家の空白のストーリー、リョーガの生い立ちなどを絡めながら、「希望」と「再生」の象徴である弟・越前リョーマと対峙することで、これまで新旧テニプリが築いてきた作品のオリジナリティ・異能力テニスバトルという概念自体を一度破壊してしまうのかもしれません。そして2人の対決は原点に回帰し、真に新しい「テニスの王子様」を創造していくものになっていったりしないかなと。

…遠回しにするとよくわからないので有り体に書いてしまうと
リョーマとリョーガの最終戦は、映画のラストでリョーマと南次郎が戦った時と同様に「あらゆる特殊能力・技を使わない(使えない)状態で、普通のテニスをする」試合にならないかなあと期待したりしています。
(あくまで予想ではなく、期待です)

楽しいだけでは世界は獲れない、けれど。

普通のテニス。
それは例えば、
リアルでもこういう試合を見てみたい、とか
本気でテニスに向き合えばこんな風に楽しい試合ができるかも、くらいの、
夢のあるテニスの試合をすること。

異能力・異次元テニスが繰り広げられるのこそテニプリだと思って読んでおられる方とか、原作を真摯に研究しておられる方々には反論もいただきそうなのですが。
正直、もし過剰にインフレしてない普通のスキルだけで行われる兄弟のテニスが決勝で描かれるのであれば…それは、かなりエモい。自分としてはすごく楽しみ、としか言えないです。

ただ、小学生がリアルに憧れて目指したいと思えるレベルのテニスって、無印テニプリ初期にすでに通ってきた道でもあります。そこを再度掘り下げながらそれ以上のものを描くことって、ある意味、漫画としての総合的な説得力が最上級に試されることかもしれません。

普通なのに、普通だからこそ、これまでの「テニプリ」以上に白熱する試合を描かなくてはならない。
リアルを描くことほど難しいことはないです。荒唐無稽な演出を入れれば読者は面白がってくれるけど、リアルの中にある真の楽しさとか、リアルだからこそのドラマというのは、ファンタジーでは描けない別の次元の解像度を要求されるものだから。
けれどそこに「テニプリがテニプリであるためにあえて省略されてきた」部分が隠されている、ような気がして仕方がありません。

映画「リョーマ!」のテーマの一つとされているものに「原点回帰」がありましたが
私は新テニも、最後は「原点」への帰結が予定されているのではないかと思っています。
新テニでは「楽しいだけでは、正義だけでは世界は獲れない。上に行きたいなら更なる扉を開け」と仰るお頭の登場で、キャラの内面も克明に描かれるようになり、能力インフレも加速していきました。
テニプリが物語としての深みを得、リョーマや日本代表のプレイヤーたちが更なる飛躍を遂げるためには、これも必要な試練でした。
でも本来は、物理法則を凌駕したような特殊攻撃が使えなくても、スタンドを召喚したり宇宙の法則を変えてしまうような守備ができたりしなくても、神の領域に踏み込んで死からも蘇るような精神力がなかったとしても、そんなものが全て奪われてしまっても、何もなくても「テニスは楽しい」はずなのです。

原点、といっても、ひとつには絞れないほどのたくさんの魅力にあふれている作品なので色々な見方はあると思います。
スカッと楽しくて、サプライズにあふれてて、カッコいいキャラたちに共感したり憧れたり。けれど最後はやっぱり「テニスって楽しいじゃん」っていう純粋な気持ちを教えてくれる。

小学生でも、女の子でも、何歳になっても、体力がなくなった人でも
誰にでも等しくテニスはそばにいてくれて、誰でもテニスを楽しめるんだよ、っていうことを教えてくれるのが、テニプリの素晴らしさであって
それは、新テニになっても、作品の根底にずっと一貫して流れている礎だと感じます。
底なしにインフレしていくファンタジーを通してではなく、普通のテニスをしていてもその魅力が十分に伝わるだけの作品を、許斐先生は20年以上かけて育ててこられたと思っているので。

映画のラストで描かれていたリョーマと南次郎の試合のように、リョーマとリョーガの試合にみんなが熱狂できる。命をかけていなくても、得意技がなくても、特殊能力を使ってなくても、ボールがコートを行き来するだけでも楽しくてワクワクして仕方ない。
許斐先生だからこそ描ける、めちゃくちゃハッピーな「世界制覇」がそんなふうに叶えばいいな、と期待しています。

ヒロインが初心者テニスプレイヤーである意味とは

少年誌でずっと漫画を描いてきて、「主人公が命をかけてヒロインを守る」それに勝るものはないと思いました。そこが一番ワクワクする。自分がそうだったので、そのワクワクを皆さんに伝えたいなと。ただ「テニプリ」はその部分には触れずにきました。

映画『リョーマ!』はテニプリ新時代の幕開け!原作者・許斐剛インタビュー

え、やっと本題です…

桜乃ちゃんについては、上の引用のとおり許斐先生が「主人公が命をかけてヒロインを守る」と公言されてるので、問答無用でヒロインと認定しています。無印テニプリ1話でもリョーマより先に登場した上に、物語の展開が桜乃ちゃん視点だったりしますし、扉絵もリョーマよりも扱いが大きかったりで、先生にとって桜乃ちゃんは最初からとても大事な女の子として存在しているんだなと思っています。
特にごく初期の頃、私たち読者は桜乃ちゃんを通して「越前リョーマのテニス」を見せてもらってきました。そのリョーマのテニスを見た桜乃ちゃんは、彼を応援するだけのファンの女の子ではなくて、一人のテニスプレイヤーとして「自分もリョーマくんみたいにテニスを楽しみたい」と成長しようとする姿が描かれていきます。
少年誌だとこういう「強い同級生や先輩に憧れてスポーツを始める」子は同性であることが多く、実はすごく才能もあって、初心者だったけれどぐんぐん成長してライバルとかチームメイトになって…みたいな展開(主人公であることも多い)が多いのだと思うのですが、桜乃ちゃんの場合はそういう都合のいい展開にはなりません。
むしろ才能的にはすごく読者寄りであって、憧れてテニスを始めたはいいけれど、才能も運動センスも普通以下。男子テニス部とは格段に差があるレベルの部活動で「初心者でもすぐに上手くなる」なんて勘違いする余地もないほどにリアルにテニスが下手です(ごめんね)。
でも真っ直ぐて一生懸命で本質をよく見ていたり、少しずつだけど成果を出していけたり。そういうスポーツスピリットとして真似をしたいところがまたうまくリアルだったりして、いろんな意味で「等身大」なヒロインだなあと、許斐先生の匙加減には感心するばかりです。

冒頭からずっと「原点回帰」についてのお話をしてきましたが、ヒロイン桜乃ちゃんの存在って、テニプリにおける「原点」そのものだと思っています。

許斐先生は、桜乃ちゃんを「リョーマを応援する彼女」ではなく「リョーマのテニスに憧れて、同じフィールドに立とうと頑張る初心者テニスプレイヤー」として登場させました。
この位置関係。
初心者プレイヤー桜乃ちゃんと、テニスで世界を獲りにいくリョーマとの関係は
映画の中で、幼いリョーマが(そしてタイムスリップした中学生のリョーマが)世界のトップに王手をかけた父親「サムライ南次郎」のテニスに憧れて、いつか越えたいと願うその位置関係と同じもの。

桜乃ちゃんも、幼い頃のリョーマも、同じように瞳を輝かせて、憧れの人のテニスを見つめます。
他の誰よりもワクワクしながらトッププレイヤーのテニスを見つめ、またそれに影響されて「自分もあんな風にテニスを楽しみたい、うまくなりたい、やってみよう、頑張ろう!」って思います。

初回に読者目線の代表として登場した桜乃ちゃんが、リョーマに影響されてテニスを始めた初心者プレイヤーである意味。
それはやはり「テニスって楽しいじゃん!」が、越前リョーマに代表される『十年に一度の逸材』たちだけの特権の言葉ではない、ということではないでしょうか。
リョーマに出会って初めてテニスを知った、初心者プレイヤーの桜乃ちゃんも同じように「テニスって楽しい。自分もやってみたい」と思えている。
桜乃ちゃんにとっても、そして彼女が象徴するような『これからリョーマたちに憧れてテニスを始める(すでに始めてきた)全ての人たち』にとっても「テニスって楽しいじゃん」は等しく与えられる言葉だと思います。

南次郎は無印テニプリの最後、天衣無縫の極みに達したリョーマを見ながら「天衣無縫なんてもんは 誰もが持ってるもんだぜ」と言っていますが、そのひとつ前のコマで桜乃ちゃんは「リョーマくん、楽しそう」と嬉しそうに微笑んでいます。
登場初回から無印最終話へ。そして新テニでも「テニスを楽しむテニス」を応援し続けてくれている彼女は、実は誰よりも自然体のままで「天衣無縫」になれている、テニプリの原点そのものともいえる存在かもしれません。