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推しへの狂気が凶器になるとき。 「好きの世界」をつくる認知バイアスについて考える


これは、誰かに対してというより自分に対しての自戒をこめての思考の整理。特定の対象とかジャンルの追求ではなく、偏りがちな視点をメタ的観点からも見る訓練のためのものです。今後の解釈と創作の「続き」に向かうためにどうしても整理しておきたく。

簡単に言うと、自分の「好き」を違う視点でみている人のことも考えようというお話です。

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私の見ている世界と他の誰かの見ている世界は同じで違う

人の認知というものは、似ているかのようで全く違う世界を形成しています。
同じものを見ていても、見ている角度や視野といったカメラ(視点)の違いで認識する世界のかたちは変わってくるし、受け取る側の機能(感覚)の違いによっても印象が違って見えてくる。

それは、年齢や経験側、知識から形成された趣味趣向だったり、遺伝子レベルの個体差や神経回路のわずかな違いが影響していたり、いろんな要素が複雑に絡み合って個々の感覚と自意識を形成します。

誰もが認知にバイアス(合理的でない偏り)が生じているのが普通なので、本来すべての人は、世界が少しずつ違って見えています。
もっといえば、人は皆、無意識のうちに自分だけのフィルターを通して自分の見たい世界を作り出している、とも言えるかもしれません。


そんなふうに、ひとりひとり全部違うフィルターを通して見ている「世界」で、なにかを見て「好き」だと思う。
自分の「好き」「いいね」を表現したり発信したりするうちに、自分の感覚が他の誰かの好きと一致することがあります。

感性とか感覚が似た人と、深い部分で喜びを共感しあえる「好きの一致」は本当に奇跡みたいな出会いで、優しい波紋となって広がるもの。他の誰かにも勇気を与えたり、同じ気持ちをもつ人たちと喜びを共有しあえたりしてプラスの連鎖を重ねていきます。
こんなふうに幸せのバイアスを重ねることは、人として楽しく生きるのに必要不可欠な認知機能でもあります。

誰もが自分にとって都合のいい、幸せに偏った世界だけを見ていたい。同じものを同じ角度で、誰もが自分と同じように世界を見ているのであればいいけれど、現実はそうではなくて。
フィルターが違えば、好きの感覚もかわってくる。見る角度が変われば好きの種類も違ってくるし、反対に「嫌い」という感情も生まれます。

たとえば、
りんごを見て「だいすき!」と喜ぶ人と「大嫌い!」を顔を背けたくなる人。

好きな理由は、表面的な美しさだったり味わったときの美味しさだったりするし、嫌いな人にはアレルギーがあったり、白雪姫の毒りんごのイメージが強くあるのかもしれないわけです。
認知(感受性)の違いは「見えている(受け取っている)世界」そのものを180度変えてしまうので、その人の感受性・価値観で見た世界がその人にとっての正解。
どちらか一方の感情が絶対的に正しいとは言えないし、自分の中で完結するのであれば、自分の感覚で好き・嫌いを決めていい。

ただ、「嫌いだから」と、他人が喜んでいるものを否定するとか、その手から奪い取ってゴミ箱に捨てるというのは行き過ぎですよね。
食べ物とかごく身近なもの・人なら、そんなことをするのはあまりにもモラルがないということはわかります。どうしても嫌いなら、近寄れないならそっと距離をおくなど、自分から離れるのが得策。

好き・嫌い、見ている世界のかたちは少しずつ違っていて当たり前で、どちらもが正しくていい。誰かが好きでも嫌いでも、そのもの自体の価値は変わることなく存在しています。

非リアルであるほどに見えにくくなる世界の境界

ではりんごのような物質ではない、概念やイメージが主体でできているものに対してはどうでしょうか。
マンガやアニメ作品を見て「めちゃくちゃ面白い、いくらでも課金できる」と思う人と「どこが面白いのかわからない、金と時間の無駄」と思う人。
画面の向こうのキャラ・芸能人を見て「世界の中心に置きたいほど好き」になる人と「この世から抹消したいほど嫌い」になる人。

好き嫌いを認知するシステムはりんごと同じです。対象を見るフィルターが人によって違うだけ。
嫌う人がいるからといって対象の価値が変わったり、その感性が否定されるものではないはずで。


けれど、
「あなたはりんごが好きかもしれないけど、私は嫌いです」
と言われて、自分自身を否定される感覚になったり、相手まで無理になるケースはあまりなさそうですが
「あなたは⚪︎⚪︎(キャラや作品)が好きかもだけど、私は嫌いです」
と言われると、なんとなく自分の感性を否定された感じがして悲しくなったり、相手との相容れなさを感じて、ひとりで勝手に傷ついてしまったり。

特に芸能・マンガ/アニメ、商業か同人か、二次元か三次元かにかかわらず、対象自体にアイデンティティや概念が付随するものに対して、自他境界というか、モラルのガイドラインが見えにくくなるように思います。
自分の「好き」の対象となるものにストーリーやキャラクター性が付随している場合、その対象の描く世界・イメージが自分のアイデンティティに影響していくからでしょうか。
りんごと違って、自分の好きをなぜか「正義」として主張したくなったり、自分の「好き」を否定されることを自分自身への否定として受け取ってしまいがち。

それはたとえば、漫画原作がアニメ化する場合でも起こります。アニメ化にあたって切り取られるシーンやキャラのオリジナル演出。
原作と違う展開、こんな◯◯は◯◯じゃない、など「自分の思っていた世界と違う」ものが見せられると、公式のコンテンツにさえ違和感を覚えて、裏切られた感じがしてしまった、と感じる人も多いようです。

対象がフィクションや非リアルの世界であるほどに、強い感情で対象に共感するほどに、リアルな自分との境目が薄くなくなってしまう気がするのは私だけかな。

推しへの愛は正義の剣になりうるか


インターネット以前にも、テレビや雑誌等、偏ったフィルターがかけられたメディアは存在していましたが、昔は個人や顔の見える仲間で「感覚」を共有することがデフォルトだったように思います。
「世界」は自分とは離れた場所にあり、こちらから積極的に探すことが主流でした。
それがSNSを通して他者と繋がるようになってから、より個人の感覚=世界の感覚、という距離感の錯覚が起きやすくなっている。

そもそも作品を発信する側がWEBやSNSを使って、ファンの推し活を扇動する時代。
興味の対象が監視され、自分と似た意見が世界の価値観に見えるように操作される。自分の思い込みや願望を強化する情報ばかりで作られた仮想世界が展開されるSNSは、とても居心地がいいものです。

自分がバイアスにかけられた世界を受け取っているように、他者もバイアスにかけられた別の世界を受け取っている。ソーシャルメディアの中では、好きという感情も、嫌いという感情も、どちらもが個人の感覚というフィールドを離れて世界の意見として演出され、拡散されていきます。
それが善意であっても意図しない悪意であったとしても、時には膨大なエネルギーを持って人を追い詰めるモンスターとなり得てしまう。


某アイドル転生アニメはそういう内容のことに切り込んで展開されていて、考えさせられるシーンがいくつもありました。
そもそもの導入部からして「推しへの偏った先入観・狂気的な愛」が引き起こした事件から始まっていたし、アニメ中盤では演出された「番組」と、それをめぐってSNSで展開される「推し芸能人への擁護」が「対立するものへの攻撃」となって登場人物を追い詰めるというシーンが描かれました。
暴走する「好き」と、暴走する「嫌い」。
どちらもごく個人的な感情なはずなのに、超えてはいけない境界をかんたんに超えてしまう。
それらは決して、アニメとかのフィクションの中での誇張されたストーリーではなくて、昔からずっと、今この瞬間もリアルに起こっていることです。


ストーカーが犯罪であるとわかっている人は多くても、SNSや掲示板への投稿、発信された「個人の意見」が同じように人を傷つけるということについては、わかっているようで実はわかっていないものです。
ネットリテラシーという言葉なんてとても薄っぺらくて、自分は良識ある大人だと思っていても、いつも誰かが誰かを無自覚に傷つけてしまう可能性だってある。
匿名であっても、フィクションであっても、SNSや掲示板に感情を流してしまえばそれはフィルターにかけられて、かたちに残ってしまいます。
そう、今も、この私の投稿もその一つ。


一見無害な「好き」という感情さえも、かんたんに「その他の可能性の排除」にも転換されていきやすい。
「自分の萌えは、誰かの__」という言葉は、人の意見に惑わされず好きを貫くことの免罪符のようにも扱われますが、文字通り、同時に誰かを傷つける武器にだってなってしまいます。


この問題を見えにくくしているのは、「私は推しを理解し尊敬している」「愛する推しを守るため」という大義名分かもしれません。
「好き」をどう受け止め、どう表現するか見たい世界は人それぞれで、どれも間違ってはいないはず。
なのに、好きを守りたいという正義が盾となって、その正義に隠された刃を見えなくしてしまう。正義を振りかざす自分自身の言葉が刃物になる可能性も、見えにくくしてしまう。
原理はストーカーのそれと一緒です。

このことは私自身も気づきにくく、つい相手を否定していないのだからいいだろうと思ってしまいがちです。
けれど、完全にフラットではない、好きとか嫌いとかどちらかに偏った意見をオープンなSNSに投下するということは、言葉がたどり着いたどこかで誰かを嫌な気持ちにさせる可能性だって0ではないと、自覚しておく必要がある。

自分たちの推し愛を表現するために「好きだからこう表現した・解釈した」というものが、他の誰かを傷つけたり貶めたりすることだってあるのかもしれない。
「解釈は自由」「個人の価値観」という理屈であってでも、それが過剰にヒートアップすると、原作側に迷惑をかけたり社会の倫理に反してしまうようなことだって、簡単に起こります。

SNSで何かを発信するのは、世界につながる広大な海に感情を捨てるのと同じ。
「好き」も「嫌い」も広い海を漂流し、意図された潮流にのって異国で誰かに拾われる。ボトルに詰めたつもりでも、中身が大きければフタが壊れてあふれるし、漂う間に割れたガラスが拾った人の指を傷つけてしまうかもしれません。

偏った世界の中心で盲目にならないために


愛ゆえに傷つき、愛ゆえに傷つけあう。
そういうのから逃れたいなら、SNSやインターネットから離れたほうがいい、という見解は一理あります。

ひとりで完結する世界の中で自分の感情をかたちにするだけなら、誰にも迷惑をかけることはありません。
例えば自室のノートやスケブに綴るだけ。
自分のスマホにメモするだけ。
鍵垢で壁打ちするだけ。
誰にも見せないかたちで、どこにも公開しなければ、どんな形の「好き」も「嫌い」も
どんなに大きな声で叫んでも、誰にも迷惑をかけないし、誰かを傷つけることもない。


けれどそれでも、喜怒哀楽を誰かと共有したくなる。自分なりのやり方で「好き」を、「自分の意見」を表現したくなる。
メモ帳に書くだけで収まらず、こうしてSNSに投げかける。
誰かが同じ思いに共感してくれること期待して。

他の誰かに感じたことを伝え、共感し合える。それは「自分の見ている世界」が確かに存在するものとして、他者にも認めてもらえることと同義です。
「他の誰かとも同じ世界を見ている」という感覚を共有することは、人としての根源的な欲求でもあり、生きる喜びにつながります。

そして推しへの愛は自己のアイデンティティと同一化され、推しを愛している自分を愛することができるようになる。
しばしば、このような「推しを推してる自分が好き」は否定されがちな状態でもありますが、自分と立ち位置を自覚し、「推しが絶対正義」ではないと認知できていれば、それは素晴らしいことだと思うのです。
誰かを強く推しているという超絶プラスな思考回路は、どんなものより人を癒し勇気づけてくれる。
人生を楽しくさせてくれる魔法のようなものです。

自分の立ち位置を自覚しておくこと。
盲目的にならないこと。
推し活を順風満帆にさせておくためには、自分の見ている世界は、常になんらかのバイアス(偏り)がかかった次元で感じているものであり、事実そのものではない(かもしれない)ということを認識することが必要。
「自分が好き・嫌いと思っているもの、感情を強く動かされたものに対して、誰もが同じ熱量と解釈で共感しているわけではない」ということを理解しておきたいものです。


自分の好き=正しい世界、ではないように
誰かの意見=正しい世界、でもありません。

世界は世界としてただあるだけ。りんごと同じように、ただの対象です。
見る視点が違うだけで「綺麗なフォルム」と思うかもしれないし「変な形」と思うかもしれない。変な形と思う人がいたからといって、りんごのかたちも世界のかたちも変わらないし、そう思う人の気持ちも「好き」と同じくらい尊重されていいはず。

たとえ同じ「好き」という感情でも、一人ひとりが異なった視点や感受性をもって対象を見ているのだと知っておけば、お互いの感じているポイントや不可侵の領域も見えてきます。
どこかで「好き」に共感しあえなくても、ひとりでも大丈夫だと思えるかもしれないし、なにより「推し活をする自分」をメタ視点で見やすくなるかもしれません。


推しへの愛とリスペクトとは

ここまで書いてみると、私は結局、自分の「好き」を表現する(世に送り出す)ことをなんとか正当化したかっただけなのかもしれません。

どんな形であれ、表現するからには、感情はどこかで誰かにつながっていきます。
他の方と相容れない部分もあるかもしれないし、奇跡的に共感し合える部分もあるかもしれない。むしろ違っていて当たり前の感性を「共感しあえた」ことを奇跡だと喜びたい。


そして私たちが何をどう感じようとも、対象それ自体の価値は変わりません。「リスペクト(尊敬)する」とはつまり、そういうことなのかなと思います。
愛するときも、相容れない時も、その対象が存在していることへの敬意と感謝を忘れないようにしたい。
それに対して私たちがあれこれ言及することが「愛ゆえ」の暴走にならないように努めていきたい。


推しへの愛とリスペクトを正義の剣と履き違えないように。
私たちは奇跡的に素晴らしい世界と出会い、たくさんの感情を与えてもらった「いち傍観者」でしかありません。
その視点を忘れないようにしながら、世界に「好き」を発信していけたらなと思います。


(さいごに)

当初はTwitterでつぶやこうかなと思った内容でしたが、思いとどまってよかったな。6535字。
何もかも底の浅いおたくのため、不適切な表現や記載があれば大変申し訳ありませんでした。
一般論でも通じるように、誤解のないようにと何度も書き直しましたが、これでも誤解を招くような気がしてなりません。
自分への反省文のつもりなんですけど、言いたいことを正確に伝えるというのは本当難しいですね。

こんな文を最後まで読んでくれた、そんなあなたがいたことが私の世界の奇跡です。

ありがとうございました。