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~ Last Friday Night その2 ~


※ 7年くらい前に書いていたことの記録(つづき)

こんな私的な過去の話を書こうと思ったのは、その時の気持ち、考えたこと、感じたことが、その後の私の人生に非常に大きな影響を与えているということを伝えたかったから。

15歳の私に訊ねれば、恥ずかしかったです、痛かったです、辛かったです、嫌でした、と答えるだろう。しかし、18歳の時には、あることに気付いていた。この嬉しくもなんともない、嫌でたまらなかったことの連続の経験のおかげで、自分自身はもとより、自分の周りの人の視線、心、考えに非常に敏感になったようだと。

子どもは残酷で、自分とは違うおかしな物を身に付けていると、「それなに?」「ヘンなの」「キカイダーみたい」と言ってくる。笑いながら、ヘンでしょ~、貸してあげようか?痛いんだよー、と言いながら、大粒の涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えた。

思春期でおしゃれしたいと思っているときに、身体が1.3倍くらいに膨れた状態の上から制服を着た姿で通学。授業中も痛みで真っ直ぐに座っていられず、腰を浮かすと、一部の先生は、「説田、ごそごそ動くな!」。背中のネジが緩んできて、締めようとしても手が届かずに困っているときにチャイムが鳴り、「次の体育、着替えで遅れると先生に怒られるから、先に行くね~」と友達が去っていく。そりゃそうだ、仕方ないね、とノロノロと動き出したところで、手伝おうか?とネジを締めてくれた強面の男子。優しさに驚き、涙が滲んだ。ちゃんと有難うと言えたかどうか記憶にない。

きっとまだ、その時の私は、「かわいそうな自分」に気付いてくれた人=優しい人、気付いてくれない人=ちょっと冷たい人かも、というような、当事者としての一喜一憂に心を揺らしていたように思う。

しかし徐々に、その人には何が見えていて、何が見えていないのか。
見えたことに対して、どんなことを感じ、どんな行動をとるのか。
そんなことばかり考えながら、毎日を過ごすようになっていったように思う。

みんな友達だし、みんな大好き。でも、全員ひとりひとり、ひとつの事象に対して、気付いたり気付かなかったり、違う見方、感じ方、対応の仕方があるのだということを知った。

さらに、その違いに気付いてからは、その一つ一つに対して、当事者的な感情で、喜んだり悲しんだりということよりも、どちらかといえば、へえ!そういうふうに感じるんだ、という第三者的な理解を楽しむようになった。

「イケてない」自分であった長い期間のおかげで、その後の人生、今の自分の職業が決まったと言っても過言ではないと思っている。

「今の自分、何かがイケてない」、「どうにかしたいが、どうしていいかわからない」、「他の人が気づいてくれない」、「この気持ちを聞いてほしいだけなのに、適当な話す相手がいない」、「どんな人がいればこの状況が今よりよくなるのか?」、「どんな人とどんな人の組み合わせが、よりよりチームを作るのか」、「人の評価って?」

こんなことを学問として専攻し、さらには仕事にするようになったのは、あの「イケてない」自分と、その時に周りにいてくれた友だち、先生、家族、すべての人たちがあったからなんだと、Katy Perryのヘン顔は思い出させてくれたのだった。

http://www.youtube.com/watch?v=KlyXNRrsk4A

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