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へた

歌うこと、ピアノを弾くこと、踊ること、絵を描くこと。これが小さい頃からの好きなことだ。そして、どれも、どちらかと言えば、下手くそだ。「好きこそものの上手なれ」というのは、よほど好きでやり続けて、気が付いたら上手になっていた、という展開でもない限り、うそだと思って生きてきた。

好きなのに下手くそだ。なのか、もしくは、下手だけど好きだ。なのか。前者の場合、小さい頃から、歌ったり踊ったりすることが好きだったのに、上手になる機会もなく、多少あったチャンスで練習したけれども大して上手にはならず、なんとなく、悲しい、残念な感じ。では、後者は?ずっと前から絵を描いているけれども、いくら描いても上手くならない、でもやっぱり好きなんだよねえ。あれ?これは、楽しそうで、いい感じ。これからも続けたいんだね、と声を掛けたくなる。

ココだけの話、と公のnoteで言うのもなんですが、ミュージカルを観ると、私もこの舞台に立って、歌って踊って、観客のずっと後ろの空間に向かって、お腹から声を出してセリフを言いたかった、と思う。毎回思う。大女優にならずとも、劇団にでも入ってそういうことをしてみようとなぜ思わなかったのかな、とも考える。美しい絵を見ると、なぜ私はもっと絵の勉強をして、たくさん描いて、自分らしい絵が描けるようになろうと挑戦しなかったのか、と思う。毎回思う。実は、なぜだか分かっている。

「へた」だったからだ。最初は誰だって下手だよ。でも好きだったら、もっとやってみればいいんだよ。と言う人もあるかもしれない。しかし、私の場合は、違った。自分の中で、おっ、ちょっと上手にできたかな?これはいい感じかもしれないな、なんてことをチラと思うたびに、必ず、もっと上手な人がいくらでもいるんだから、とか、コンクールに出るのは誰さんくらい上手でないと、という声があった。小・中学生くらいの私は、へえ、そうなのか。好きなのにな、上手じゃないからだめなのか、としぼんだ。どんどん。

運動が嫌いだった私は、美術部、音楽部に入った。人気の無い部活でメンバ―不足のため、もしくは先生の(勝手な←光栄でしょ!)ご指名で、部長にもなった。部長なのに「へた」。「へた」なのに部長。なんか嫌だな、と思いながらも一生懸命やっていた、私なりに。あのとき、どうしてもっとうまくなることを考えなかったのだろうかと考えてみると、その時点ではすでに、しぼんでいたからだと思う。心の中の、うまくなりたい!もっと自分が素晴らしいと思えるような作品を作りたい!と思う気持ちがふくらまないくらい、小さくちいさくしぼんでしまっていたのだ。好きだからやっているだけ。

さてと、恨みつらみを述べるためにこれを書いているわけではない。その経験の延長線上で、大学生になり社会人になり、結婚し出産し、(離婚し、再婚し←書かなくてもよい)結構長い年月が流れた。その間、私はずっと「下手だけど好き」を手放さなかった。人にきかれれば、平気で、これこれが好きなんです、と言ってのけた。もっと上手でそのことに詳しい人がいっぱいいるよ、恥ずかしくないの?という囁きは、変わらず聴こえるけれども。

この数年でやっと、ずっと抱えてきた、萎みきった「好き達」を、折角好きなのだから、もうちょっと育ててみようかな、と思い始めた。いつからだっていいよね、と自分の中で呟きながら。これはハーフセンチュリーに達した自分用の話。

小さい子どもたち、これからの世界に羽ばたいていく子どもたちに、決しては言ってはいけない言葉。「もっと上手な人はたくさんいるよ」。そんなことは、その子どもにとっては全く関係の無いこと。その子が好きだと思っていること、やっていて楽しいことは、もっともっとやってみようと思わせて、どこまでも可能性を拡げてやることが、大人になった私のすべきこと。

おもしろいね、すばらしいね、もっと見せて、聴かせて、と。

これが、自分の経験から学んだこと。






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