与えることができる幸せ
アフリカ大陸に初上陸したころ、私は沢山の怒りを感じていた。
タンザニアに来たころの私も、また常に怒りで震えていたように思う。
何に怒りを感じていたのか?簡単に言ってしまえば、頼られること、求められること、弱肉強食の世界にだった。
私が初めてアフリカの地を踏んだのは、大学を卒業して間もなくだった。大学を卒業し、就職をせずに続けたアルバイトでやっとの思いで貯めたお金でやって来たのだった。
外国人が住んでいないウガンダのど田舎に、急に来た日本人。
噂を聞きつけた人たちが、何時間も歩いてお金を恵んで欲しいとやって来たのだった。全員を助けることができない苛立ちと自分の無力感に打ちのめされた。
街中を歩いていても、お金をくれと話かけられる。役所に行っても、警察に行ってもお金を!と言われる世界。手持ちの小銭をストリートチルドレンに渡したら、「こんだけかよ!」とキレられ、絶望と怒りを感じたこともあった。
「こっちはやっとの思いで貯めたお金で来ているのに、なんでこんなおっさんたちにお金を要求されなきゃいけないの!」「なんでお金あげているのに、感謝されないの?」そんな思いでいっぱいだった。
タンザニアに移住してきた当初も、額は違えど、様々な場所で求められるお金(ときに賄賂)に苛立ちを感じたものだった。そして、お前なんかにお金をやるものかと時にバトルを繰り広げたものだった。
今でもそんな話を同じくアフリカにいる日本人や外国人から聞くことがあるので、誰もが通るフェーズなのかもしれない。
ある時から、私は求められることに怒りを感じることがなくなった。
「求められる=与えることができる」ということに気付いたからだと思う。
ウガンダで全財産を盗られたあと、何か月か1日1食で過ごし、乗り合いバスの運賃も払えず、何時間も歩いている時期があった。病気になっても、病院代すら自分で払えなかった。
当時のことを思うと、誰かに与えられサポートをできるということは、今の自分が恵まれているということであり、感謝に値することだと思わざるを得ないのだ。
車を運転していると物乞いの方たちが窓をノックしてやってくる。お金を渡すときは、「ありがとう」と手を合わせるようにしている。それは、私が与えられる存在だということを彼らが気づかせてくれたからだ。
警察にとめられて、「お腹空いたー」と言われることもある。
昔だったら、瞬間湯沸かし器のように怒っていたような事例だ。
今は「暑いもんねー、まじでお疲れ様。これでソーダでも飲んで頑張れ!」と言えるようになった。
(こういう気持ちになってから、あんまり警察に止められなくなったが)
私も、友人や知り合いや道端で出会った人たちに、常に彼らが求めているものを渡せるわけではない。時に他のことで頭がいっぱいだったり、自分に余裕がなかったりもする。
あげたくないという思いのときも当然あったりする。そんな自分をあえて否定はしない。でもあげるときは、心からありがとうという気持ちで渡す!愛を循環させていることを実感する。これがマイルールである。
縁があって出会った人に与えられたことに、常に感謝できる自分でありたいと思っている。
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