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【小説】春先の大阪

不思議なことである。
時たま、どこか遠いところへ行きたくなる。行く先はどこでもいい。

今、自分が住んでいるのは東京。
人の多さと、見かける人たちの持っているであろう物語―つらさ、よろこび、恨みと疲れ。そんなものを見て、感じていると不思議と自分まで、その幾多の人々と「物語」を共有しているような気がして、どっと疲れてしまう。

品川駅の雑踏を逃げるように早足で通り抜けて、新幹線に乗る。
不思議である。
地下鉄や京急線は、高いと感じるのに、東京を離れるためにかかる4桁超えの新幹線の乗車賃は、自分の中で必要経費として処理されてしまう。

北ゆきの新幹線は少し苦手だ。トンネルが多すぎる。
ただでさえ、自分が、観念的な意味として、どこにいるか、どこに生きているのか分からないのに、真っ暗なチューブに放り込まれてしまっては、物理的な不安感は、募るばかりである。

西ゆきの新幹線にも、トンネルがないではないし、しかもかなり揺れるため、乗り物酔いのひどいわたしにはかなりこたえるのだけれど、
しかし、ゆけばゆくほど、故郷に近づいてゆく安心感からだろうか。
知人の住む町も、西に多い。
名古屋、京都、新大阪、新神戸と止まるたびに、心がほっとする。

その日は、新大阪で降りた。

大阪。
この街は、東京に暮らして数年が経つ私にとっては、なんてコンパクトな街なのだろうか、と感動すら覚える。
空港も、陸路の駅も、繁華街も飲み屋も、大きな遊園地も、コリアンタウンも、全て電車で少しの圏内にある。

友人とは、大阪駅のすぐそばにあるホテルのラウンジで待ち合わせる。
その日は雨が降っていて、大阪駅でタクシーを拾おうかと思ったけれど、距離が近すぎて、やめた。
これも不思議なのだけれど、東京のホテルのラウンジ、ロビー、カフェで過ごす時間よりも緊張する。
東京は、資本が集まる街であり幾多の富裕層たちがいる地でもありながら、しかし全体として見れば有象無象の人間のひしめき合う、ある種のカオスである。どんな高級ホテルのラウンジにも、世間的には「ワケアリ」とでもいうのだろうか。高そうなスーツを着たおじいさんと、サンリオのキャラクターと、なんとなくお手頃そうな白いふりふりで全身を飾る少女(厳密に年齢という観点からいえば、おそらく彼女たちは少女ではないのだが、「少女の仮装」をしているというべきだろうか)がいたりする。それは、異様な光景でありながらしかし、そこにいる人々の背景や、欲望もまた街の背景でしかない。そんな街である。

しかし。
これは外側から「大阪」を見る自分自身の偏見かもしれないのだが、何か由緒正しい、その土地で財を成したお金持ち、しか受け入れてくれないのではないだろうか、とか、そんな風に思うのである。

待ち合わせた彼女は、旧友で、普段は神戸で働く。
元からあか抜けていた彼女だが、心なしか、東京で知り合ったときよりも顔もすっきりし、表情も豊かに見える。
きついのだ、きっと東京に暮らすことは。
就職で意気揚々と地元に帰った彼女を、私はうらやましく感じることもある。地に足のついた、家族との生活。給料はお小遣いでいい。
女ひとり、東京にいるだけで、「地に足のついてない」感じがするのはどうしてだろう。家族が同居しなければならない法律などないのに。
家賃、生活費の出費と、住民票の手続きやら、なんやらというのは、それほどに「コスト」なのだろう。

ヒルトン大阪のラウンジで、わたしたちは将来の話をした。
「うち、東京帰ろうかなと思ってる。」
そういわれた時、かなり意外だった。彼女は、実家のある関西で、幸せそうだったからである。
訳をきくと、「今戻らないと、きっと一生戻らない」という話だった。
この理由にはとてもうなずける。
きっと、東京ではないどこかで、例えば家庭とか、それなりのキャリアとかを築いてしまったら、またもう一度、東京がどんなに楽しい街であっても、東京に戻ることは難しいだろう。
片道、でなければならない街。
一度離れると、経済的にも、精神的にも、「こんなにも疲れて、消耗するのか」ということに気付いて、きっとまた戻らなくなるだろう。

日本中から集まる才能、ロジカルな話し方をする人々、顔がかわいくて、そのかわいさを自分でも自覚している子。たえず、自分は他者との比較をし、比較によって一喜一憂して、自己を自覚する。
そんな他者の、サンプルが大量にいる東京は、しんどいのである。

まばゆい装飾のラウンジを出て、私たちは鶴橋の焼き肉屋を目指した。
大阪はコンパクトな街だ。
環状線には、急行もある。
鶴橋駅は、なんとなく暗くて、少しだけ治安の悪いような感じもあるが、美味しそうな店がたくさんあった。新大久保とはまた違う、歴史、のあるようなコリアンタウン。

仕事に着ていける服を探して、梅田をうろうろしていた私たちは、とにかくエネルギーを補給することが必要だった。
サムギョプサル、チヂミ、ナムル、ビビンバ。
大量に頼んでいつも食べきれないのが、わたしたちのお決まりのパターンである。
ビビンバを口に詰め込みながら、彼女の顔をちらっと見ると、
「明日もしごとかー」とつぶやいて、隣の親子連れを眺めていた。
それは、見たことがない彼女の顔で、
「ゆめのあと」のような顔だった。

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