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【小説】五反田のクラブ、そのあとで

窓から差すオレンジの光は、マグカップから立ち上るコーヒーの湯気と溶け合って、古書だらけの研究室に居心地の良い雰囲気をうみだす。

おだやかで、眠気のおそってくる、午後のまどろみ。
心地よさをかき消す声が突然きこえる。
「ねえねえ、なんかさ、最近俺のことすげえ避けてない?」

ええ、避けてますけど。
避けてるという以前に、「避ける」という概念が発生するほど親しかったですか?

そう答えたいのを抑えて、ふにゃふにゃとごまかす。
以前から、その研究室仲間の視線は感じていたし、こちらは距離をとりたいのに、何かにつけて根ほり葉ほりパーソナルなことを聞かれて、たまらない。

「忙しいよね?いや、忙しいよな!だって、こないだの発表もきちんとこなしてたし、一人暮らしなんだよね??自炊とかするの?」

タスクが溜まりすぎて、半ばごみ山のようになった勉強机も。
暇がなくて水につけたまま一日置いてしまった茶碗も。
知らないくせに。

なんだか、とってもいい日だったのになぁ。
彼が悪だ、というのではない。人の表層の部分しか見ていないこと、
それを分からずにつながりってやつを持とうとしてくる、こと。
苛立ちより、悲しさを覚えていた。

舐められちゃいけない。隙を見せれば、いい子、頑張る子、家庭的な子、勝手な幻想を押し付けられて、相手が自分の中にある「聖」の部分を勝手に掬い取ろうとしてくる。特に、いま、この23歳の女性である見た目を有しているときは。

その日のTo Doを片付けて、五反田駅に向かう。
東口の歩道橋に吹く風は、東京ものではない私の肌にはやっぱり痛い。

重いドアを開けると、マルボロのにおいが流れてくる。
黒いカウンターに腰掛けるのは、赤地に白の、品のある柄のドレスを着たママだった。
タバコを片手に肘をつき、机にiPhoneを置いてなんだか険しい顔で見ている。

この人の顔は、ただ美しいというのではない。
可愛い、という言葉からは、もっとかけ離れている。
凄み、とでもいうのだろうか。
それは、ドレスの赤とか、タバコの煙とか、長いつやつやした爪が、ではない。
皺も、40代の相応らしい肌感も、目力と眉毛の強さ、黙っているときはいつもきゅっと結ばれた口を際立たせるためにあるようだった。

突っ立っている私に気づいたママの口角が、その瞬間にきゅっと上がる。
「来てるならいいなさいよ!寒いでしょ?なんかあっためて飲みな!!」
細い腰をくるりとこちらへ向けて、マグを渡す。

わたしは、真っ赤になった両手で、受け取る。
スミレ色に、シルバーの星を施してもらったネイルが、とたんに子供みたいに思える。

私はたぶん、この人にとっても惚れている。
そうとしか言いようのない、そしてきっと永遠に伝えることのないだろうこの感情をあつい飲み物で自分の心に流し込んで、仕事にとりかかる。

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