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GIGAスクール構想への違和感

プログラミング教育に関わるようになって約半年。なんだか、不穏な空気を感じています。

それがGIGAスクール構想。今回のコロナ騒動で前倒しになったこの構想は、簡単に言えば学校に1人1台端末を導入しようという国の方針です。もちろん「PISA型読解力のテストにコンピューターが導入されている」とか「日本はその成績が著しく悪い」とか国の状況は知っていたのですが、今の教育現場はそこに関心を持っていかれすぎている感じがします。

というのも、つい最近、教育委員会関係の人と話す機会が続いたのですが、

「パソコンが1人1台導入されるが、子どもたちがそれを使えるためにどうしたらいいと思う?」
「最近の若者はスマホは使えるけどパソコンは使えないから(学校でパソコンを使えるようにするべき)」
「ICT機器の活用ってどんな授業ができると先生は思いますか?」

そんな言葉を耳にして、なんだかとても違和感を感じました。

「パソコンありきなの?」
「パソコンを使いこなせることが目的なの?」
「その先の目標は何?」などの違和感…。

子どもの能力を上げておけば、使い方はすぐ学べる(タイピングなんて半年使えば身につく)し、使っているソフトやアプリもどんどん変わっていくのだから、大切なのは「パソコンを使えるようにすること」ではなく「子どもがいろんな考え方を身に着ける」ことではないか、と思うのです。

もともと「プログラミング教育」も、子どもたちの思考の力を身に着ける教育とされていたはずです。思考の力をつけるとは「答えのない問題について何が最適か考える」「新しいものを創造する」といった「予測困難な未来を生き抜く力を身に着けるもの」だと認識していました。

それなのに「コンピューターを使えるようになるためのプログラミング教育」みたいな流れになり、「STEAM教育」の流れを感じられなくなってしまったなと残念な思いです。

このGIGAスクール構想にはたくさんのお金が使われ、教育委員会としても「お金をかけたんだから費用対効果を!」という考えも分かります。パソコンが使えないより使えたほうがいいという考えも分かります。

でもそこに囚われすぎてるんじゃないの?と。

気になって文部科学省が出している動画を見始めている今日この頃。
STEAM教育こそ本筋であって欲しい私は、文科省の方針を素直に受け入れられずにいます。

↓動画ではプログラミングが「情報の科学的な理解」に位置づいている…。

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こんな狭い捉えにされてしまったのか…という印象。

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