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30代最後の日ーこれから30代を迎える君へー

皆さんこんにちは、中山祐次郎です。いつもありがとうございます。あるいは初めまして、中山祐次郎と申します。外科医師・作家をやっています。

突然だが、私は明日、40歳を迎える。つまり今日が30歳代最後の日ということになる。昔から誕生日なぞどうでもいいと思っていたが、思いの他感慨深い。手術室看護師の「なっちゃん」に、「俺明日から40代になるんだよ。なっちゃんいくつ?」と尋ねたら「えー私も来月23になるんです!一緒ですね!」と言われた。

「30代の終わり」。まあこれも一つの区切り。ひとつ、この10年間を総括するとともに、いま20代の皆さんに「こういう30代を送るとこうなるよ」というメッセージを送りたい。ドヤではない。卑下もしない。ただ、こうやったらこうなった、という、英語の教科書にある道案内をする例文のようなものを提示するだけだ。これをどう解釈するかはあなた次第だ。

私自身のメリットは、書くことで気持ちが整理されるし、まあ記念になるから良しとする。デメリットは、原稿をお待たせしている幾人かの編集者さんから「テメエーんなもん書いてんならウチの原稿進めろや」と思われることである。ちなみに私はこれを数日前から書きためた。

30歳になった頃、私はトーキョーの病院で外科の後期研修医として働いていた。後期研修医とは、医者になって最初の二年間を終えたあと、「外科医になることは決めたので、その修業をはじめますよ」と宣言してからの三年間だ(病院によってはそんな呼称はない)。私は大学受験で二浪したので四年目の医者だった。

外科の中で、色んな外科を三ヶ月ずつローテーションしていく。借り暮らしが続く三年だ。その三年間の中には、木刀病院(仮名)や玉医療センター(仮名)などという、自分の勤め先ではない病院もあった。三ヶ月だけの出向のようなものだ。肝胆膵外科、胃外科、大腸外科、乳腺外科、心臓外科、小児外科、救命救急…といろいろなところを回っていき、外科学全体を学ぶのである。

その頃はただ「手術が上手くなりたい、そして一人前になりたい」という一心で、毎日23時まで病院に残り手術ビデオを見たり腹腔鏡の手術の練習をしたりしていた。上司の指導下に、ときどき来る執刀のチャンスで最高のパフォーマンスを出す。ただそれだけが人生だった。なにか旨いものを食べたとか、変わった人に出会ったとか、そういうことは一切なかった。病院にしか居なかったと言っても過言ではない。土日も病院にいた。そして32歳で外科専門医という資格を取得した。

その頃、フェイスブックが流行り始めていた。mixiに飽きていた僕はなんとなく登録し、中学・高校時代の先輩や同級生たちとフェイスブック上での再会をした。そこからの縁で、一歳上の「イケメン・金持ち・東大・キラキラ」みたいなスーパースター先輩が主催する二学年の同窓会があった。ノコノコその同窓会へ行くと、そこには私の出身高校でポップ系勝ち組とされるバスケ部出身者が多くいた。アウトロー系ダークサイドのサッカー部出身であった私はアウェイであった。

キラキラ先輩が「一人ずつ近況報告しよーぜ」と言った。商社、弁護士、官僚、起業、テレビ局…僕は圧倒されつつも自己紹介をした。そして「宇宙飛行士を目指している」と言った。当時、僕は本気で目指していたのだ。まあ本気と言っても、JAXAがいつ募集をかけるかわからないため、宇宙飛行士についての本を10冊くらい読み、宇宙飛行士の適性に必要そうな「極地での経験」を得るべく南極観測隊の医者を目指して大型二種免許や無線免許を取得したくらいなのだが。

その会で、やなちゃんという同級生と再会した。やなちゃんは高校時代から天才キャラで、ごく自然に東大に行き、その後テレビ局に入社しなんと自分の本を出していた。話して5分で「この人は頭がいい」と思えるようなそんなやつだ。彼はどういうわけか私に興味を持ってくれて、自宅でひらくホームパーティーのような異業種交流会のようなハイソな会に呼んでくれるようになった。

幾度か参加したその会で、私は衝撃を受けることになる。なにせ参加するほとんどの人たちと、全く話が合わないのである。ある人はコンサル、ある人はベンチャーキャピタル、ある人は空間デザインだった。その単語自体の意味がわからないし、第一私は企業で働いたことがない。放っておけば営業部もないのに顧客が並び、価格競争もないところで価値を提供すると公的なお金が会社に入りそこから給料が支払われるという、極めて特殊な業務をしていただけだったのだ。唯一、「会計士です」と自称した人とは話が合ったが、いかんせん私は会計士とはお店のレジで高度なレジ打ちをしている人だと本気で思っていたので、結局噛み合わなかったし多分不快な思いにさせた。

32歳で、外科専門医だが、私は世間というものを全く知らなかったのだ。

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(当時の私)

中でも忘れられないパーティーがある。やなちゃんが声をかけてくれた、原宿で行われたエナジードリンクかお酒の企業のパーティーで、それをリクルートのでかいサービスの責任者のCさんという人が主催するというのだ。それだけでも私には意味が全くわからなかったが、DJがいたり酒を飲んでいろんな人達が談笑するそのパーティーは、まるで小説「グレート・ギャツビー」(1925年・スコット・フィッツジェラルド作 映画もあるよ)の毎夜の饗宴を思わせた。

私はOという後輩外科医を連れて行った。三人で会場に入り、コロナビールか何かを飲みながら会場を練り歩く。やなちゃんはあちこちに知り合いがいて「おー久しぶり」とか「最近何やってんの!」とか業界人らしい振る舞いをする。私とOはやなちゃんのあとを着いていき、「ふふん、まあそうだよね、そういう視点もあるよね」というような顔をするだけの、謎の同行人であった。先頭のやなちゃんだけが喋る。まるでドラクエである。

何を話していいかわからなかったのもある。やなちゃんは丁寧にその都度会話の相手に紹介してくれるのだが、名刺さえ持っていなかった私とOは「どうも、中山と言います、よろしく」と言うのが関の山だ。そしてついにやなちゃんは人に囲まれていたパーティーの主催者、Cさんのところへ行き挨拶をし、丁寧にも私とOを紹介してくれた。私は「医者の中山と申します、すいません、名刺を持っていなくて」と言った。それでもCさんは「楽しんでってね」と言ってくれた。名刺の束を手にして。まさにグレートギャツビーの主人公、ギャツビーだ。

その時私は思った。このギャツビーの頭に、自分は絶対に残らない。完全スルーだ。存在しないも同じだ。せめて名刺くらい作らねば。そしてこういう社交の舞台に立ちたい。そして、こういう一般の人たち(つまりは小さな小さな医療のコミュニティの外の、大多数の人たち)に「オッなんだこの人は」と興味を持たれるような人間にならねばダメだ。ギャツビーが優しいからこそ、深い屈辱を覚えた。恥ずかしながら、自分が「丸腰である」と感じたことを強く覚えている。そんなことは生きる上での価値でも何でも無いのに。

それでも、やなちゃんはどういうわけか私を面白がってくれ、しょっちゅうホームパーティーに呼んでくれた。私は急ごしらえの変な名刺だけを武器に、懲りずに参加していた。「営業って、どんな仕事するんです?」「広報ってなんですか?」就活生でも聞かないような質問を、私は聞いていった。

ある日、やなちゃんは「ゆうじろう君、本書いたら? 話面白いし、書きたいこと、あるでしょ」と言ってくれた。そして私のために企画書というものを書いてくれて、あちこちの出版社に持ち込んでくれたのだ。ことごとくボツになったが、一社だけ興味を持ってくれた。「とりあえず書いて下さい、一冊分」と言われた。

「これだ」

と思った。私は33歳だった。出版されるかどうかもわからず、「とりあえず」一冊分の文章を書く。14万字、つまり原稿用紙350枚分だ。無茶にもほどがある、とは全く思わなかった。今、私の人生が動き出している。「書き手」という舞台に上がる階段を、こうやって登るのだ。私はつばを飲み込んで、マックブックエアーを開くとワードでパタパタと書いていった。

8ヶ月が経った。書き上げた。資料となる本は30冊ほど買って読んでいた。メールで送る。返事を待った。朝起きてすぐメールボックスを開く。昼、仕事の合間にメールボックスを開く。夜寝る前にまた開く。そんな生活を続けること約半年。ついに返事が来た。

「出せません」

添付ファイルには赤字でびっしりと原稿を直してくれていた。しかし出すことはできない。

私は舞台に上がることができなかった。

その後のことは、何度かいろいろなところに書いた。結論から言えば755というSNSアプリで幻冬舎社長の見城徹さんと知り合い、原稿を見てくれることになった。それだけでも奇跡的だが(普通はそういう持ち込み原稿は読んでももらえない)、最終的には出版をしてくれて、私は書き手になった。34歳のことだった。「一冊目が売れないと、書き手としては二冊目はない」と出版界ではよく聞く。処女作「幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと」はありがたく3万部を超えたヒットになった。バンバン新聞広告をしてくれたのだ。

それから、Yahoo!や日経という大きなウェブ媒体で書き手になることができた。これらの連載もまた、友人たちが繋いでくれた縁だった。そして私は結果を出した。

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(当時の私、の中で一番写りのいい写真)

その頃、私は医者としては煮詰まっていた。責任のある仕事を任されない職制で、私は自分を持て余していた。ロクな仕事をしていない、ただの歳だけがいった研修医のようなものだ、と自分を考えていた。職場の上司にも、「死んだような目をしやがって」と言われた。このままだとダメになる。そして育ててくれた職場にはこれ以上迷惑をかけられない。そう思い、9年勤めた病院を離れる決意をした。

あと3ヶ月で退職するという年の瀬。12月31日、自宅でNHKのニュースを観た。聞けば福島県の原発近くの病院を一人院長で支えてきた医師が急逝したとのこと。気の毒に、と思った。そしてすぐに忘れた。

年が明けて、訃報が届いた。中学・高校時代の同級生でサッカー部でもバンドでも親しかった男。同級生には誰も言わず白血病で亡くなったと、一番親しい友人が悲痛のメールをしてきた。愛知県に、通夜にかけつけた。若い奥さんと幼子が呆然と座っていた。帰りの新幹線でめちゃくちゃにビールを飲みながら友人と帰った。

お前はどう生きるのか。ひたすら自問した。

その翌々日、僕は埼玉県の病院で働いていた。そして休憩時間にフェイスブックで研修医時代の同期の投稿を見た。なんでもその原発近くの病院でボランティアをしてきたと、そして危機的状況だとあった。見た瞬間、頭が沸騰した。俺はどう生きるのか。

行く。

あとのことはあとで考える。仕事が終わり帰宅した。当時同棲していた、交際相手に告げた。良いと思う、と言いながら、危ないから心配、と泣いた。翌日病院に出勤し、上司に告げた。一人の上司は「俺は良いとは思わない」と激怒したが、後の上司たちは良いんじゃないかと言ってくれた。今思えば、いかにロクに役立っていなかったとはいえ、突然辞めることを許してくれた上司達には感謝しかない。社会人としては失格だ。家に帰ると、交際相手は「行ってきて。私はあなたを誇りに思う」と赤い目で言ってくれた。後の妻だ。

行くつもりで福島の病院に連絡をし、二日後にはその病院にいた。弔問客が泣きながら院長のお骨に手を合わせる。私は働くことに決めた。その後、あるグループからの嫌がらせにも耐えつつ二ヶ月の臨時院長をし、もともと行く予定だった福島県の別の病院に赴任した。35歳だった。ここで私は一般外科を含めて広く学びなおし、若手の育成に打ち込んだ。

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それから臨床研究と公衆衛生を学びに京都大学大学院へ。築78年のボロ家に住んだ一年間の京都生活は、暑くて寒かったが楽しかった。卒業時の研究発表で優秀賞を受賞し、代表で学長から卒業証書を貰う予定だったがコロナで流れた。京都では新書「医者の本音」(SBクリエイティブ)を書いた。バカ売れしてその年の半期売れた新書ランキングベスト10に入った。次の「がん外科医の本音」も続けて出した。

と同時に、34歳から書き続けていた小説が世に出た。僕は38歳だった。「泣くな研修医」だ。ボツを2回食らっているので、実は私にとっては3作目のような気持ちだ。こちらも好評をいただいて、続編「逃げるな新人外科医」が39歳で出た。小説は続けている。

とまあ、つらつらと書いてきたが、書き損じた重要なことはあと2,3はある。しかしこれくらいにしておく。

自分の10年間を俯瞰すると、よくもまあ色んなことをやってきたものだ、と思う。功名心や金銭欲が先行した30歳代前半であったが、今はずいぶんそういう欲も落ちてきたような気がする。

一貫して思うのは、私の人生を進めたのはいつも私ではない誰かである、ということだ。その誰かは、30歳代の前半はほとんどがやなちゃんだった。誰かが声をかけてくれてバッターボックスに立ったとき、私は何十球も空振りをした。しかし、なんど空振りをしても、決してバッターボックスから離れなかった。当たるまで、76三振くらい続けて打席に立ったのだ。そうして極めてまれに、カキーンと当たった。効率のかけらもない。人から見たら、毎回ホームランを飛ばしているように見えるのかもしれない。しかしそれは誤りだ。

私の心には妬みやそねみ、現状で満足できない傲慢さ、月並みな欲、人への恨みが充満していた。そういうエネルギーは、なんとか努力へと変換できたときには、うまく変換してやってきた。そうでないことのほうが多く、幾夜身悶えたか知らない。

30歳代が終わる今思うこと、それは、金持ちになる、有名になるなどということは本当にどうでもいい、ということだ。ただ、苦しい人を救いたい。面白いものを作りたい。そして、自分と家族を幸せにする。それが、いやそれだけが自分の人生の軸なのだ、と今思うのである。きれい事のようだが、心底そう思っている。付け加えるなら、私も誰かにとってのやなちゃんになりたい。当たりそうにもないバットを、大空振りしている誰か。

ここまで読んでくださった方へ。私の30歳代という10年間から、学べることはない。同じことをやったら頭がおかしくなるかもしれないし、もっとうまくできるかもしれない。大切なことは、私は私の有り様でやってきたし、あなたはあなたの有り様でやって欲しいということだ。私は私の有り様でやってきた、それについては成功したと思っているし、とても満足している。あと何年生きるかはわからないが、これからも私の有り様で行きていきたいと願うのである。

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