[第1部 被災](4)
住民集会
2月に入ると、寒さが深く、厳しくなってきた。僕と妻は毎日皿にクレラップをひいてご飯を盛り、紙コップでお茶を飲み、「水のいらないシャンプー」で髪を洗い(これは便利だったがあまり効き目はなかった)、コープでもらうビニールの買い物袋を持ってトイレに入った。週末になると友人宅で風呂と洗濯機を借りたが、風呂はせめて週2回は入りたい。そう思っていると、近所の小学校に自衛隊の仮設風呂ができている、といううわさが聞えてきたので、夕食をとった後、自転車に乗って妻とそこを訪れた。小学校の校庭に入ると、黒々としたジープが3台並んでいて、その横にサーカスのようなテント小屋が2つあった。手前が男湯、奥が女湯だ。女湯のほうだけ、テントの外に長い列が出来ている。
「変だな。なんで女湯の方だけこんな長い行列ができてるのかな?」と僕がつぶやくと、妻が「それは女の人の方が1人あたりのお風呂の時間がずうっと長いからじゃない」と見解を述べた。なるほど。ひと風呂浴びて外へ出ると、20代の自衛隊員らしき人が灯りの前に2〜3人立っている。
「どちらから来られたんですか?」と聞くと
「(北海道の)旭川からです」とのこと。そんなに遠くから…と驚く。自衛隊の人と話したのは初めてだったが、皆、明るい好青年だった。
冬の底冷え。ライフラインは切れたままだったが、市や県から派遣される給水車や救援物資を積んだトラックが週2回ほどマンションを訪れてくれるので、飲料水や食料の確保は容易になった。このマンションは内部に“放送”できるような設備はないので、トラックが到着すると、管理人さんがメガホンを持って中庭に出て、見上げる棟に向かい大声で
「救援物資が来ましたよー」などと叫ぶ。すると各棟の扉が開いて、子供や大人や犬が次々に階段を駆け降りてくる。救援物資の段ボールには食料以外にも全国各地から無償で送られてきた衣類や日用品も詰め込まれており、僕は神奈川県のどなたかが着ていた古着のセーターをありがたく頂戴することにした。道路も次第に整備され、街は穏やかな表情を取り戻しつつあった。
そんな2月の金曜日の夜、僕と妻は、子供を引き取りに最終のJR「雷鳥」に乗って妻の実家、石川県へ行った。実家にたどり着くと、もう深夜の12時を過ぎており、子供たちは2人とも義母のひいてくれた大きな布団にくるまってぐっすりと眠っていた。懐かしい寝顔だった。子供と離れた1ヵ月の間、毎晩実家に電話をかけて子供たちの声を聞いた。義母は僕から電話がかかってくると、受話器(子器)を持って子供が入っている風呂場や、寝室へ走って届けてくれた。
「お父さんから電話だよ…」上の娘は現地の学校に編入してもすぐ友人をつくり、なじんだそうだが、下の息子は義母と家に居てちょっとゴンタだったらしい。子供たちが疎開したのはちょうど冬の真っ只中だったので、妻の兄夫婦は2人を雪山に連れて行ってくれ、2人はそこで生まれて初めてスキーを体験した。雪だるま、雪投げ・・
「疎開も悪くないな」と僕が言うと、
「そうね」と妻もうなづいた。妻の両親と4人でしばらく語りあった後、さて我々も寝ようかと着替えてふとんに入ったところ、ごそごそする音で子供たちは目を覚ました。
「あっ、お父さんだ」
「お母さんだ。おかあさーん」2人で交互にむしゃぶりついてくるのを抱きしめながら、久かたぶりに親を実感した。
話は若干前後するが、2月に入ってからまもなく、住民集会が開かれるようになった。場所は、救援物質を管理人から受け取る駐車場前の青空広場で、開催日は当面、毎週日曜日と決められた。このマンションには屋根付きの集会場などという気のきいたものはなかったので(本当はあるのだが、10人位しか入れないので役に立たない)雨が降ったらちょっと困ったはずだが、実際にはうまい具合に雨の日には当たらなかった。日曜日の午後1時になると、寒風が吹きすさぶ中、中庭や階段、倉庫の裏や木の陰など、さまざまな場所から100人を越す住民がぽつりぽつりと集まってきた。1回目の集会ではマンションの管理会社の部長が住民の前に出て、あれこれと状況を説明した。
「なぜもっと早く説明に来なかったのか」と怒りの声が沸き上がった。司会進行役は、マンションの管理組合の代表(つまり住民代表)である理事長の大山さんという人だった。僕はこのマンションに越してきて2年以上経っていたが、理事長をみるのは初めてだった。そもそも「理事会」という各棟代表からなる組織があることさえ知らなかったのだ。理事長の大山さんは、僕と同じE棟の住民で、柔和な顔をした60歳前後の律儀そうな方だった。管理会社の説明が終わると
「支柱が折れているようだが、住んでいても危険はないのか」
「エレベーターはいつ動くようになるのか」
「水やガスはいつになったら出るようになるのか」といった質問が次々に出た。具体的なことを住民は皆、知りたがっていた。しかしともすれば管理会社の答えは、彼等が営業畑で技術の専門家でないためか、あいまいになりがちだった。
「どうして施工会社が姿をみせないのだ?」
「マンションの設計者をここへ連れてこい」といった要求も出始めた。100名を越す住民が広場に立ったまま不安に揺れていた。
そのとき、群衆の端の方にいた1人の男性が突然「あのう、ちょっとよろしいでしょうか?」と声を出した。背丈のがっしりした、40代なかばの青年実業家風の人だ。皆がそちらをみた。
「私はB棟に住む、瀬戸と申します。実は私、一級建築士の資格を持っていまして、私の目で見た範囲で、皆さんの疑問に答えようかと思いまして」と前置きし、このマンションの現状についてこの人なりの見方を示した。それによると、このマンションは被災して、一見激しく壊れているようにみえるが、実は建物を支えている構造体にはほとんど被害はなく、そのため少々の余震が来ても問題ないレベルである、というものだった。C棟とD棟の間の渡り廊下が地震の衝撃で切断され、地面に落下したのだが、これも「一方の棟が受けた衝撃が他方へ直接伝わらないように」予め切れるように設計されているという。あるいは壁面のいたるところに「×」の亀裂が走っているが、これも表面上の傷に過ぎず「一見派手ですが、直すのは簡単です」という。彼の話を聞いて、住民は彼に質問を出し始め、彼は1つ1つ正確にそれらに返答していった。
「たいしたもんだな」と僕は思った。
群衆のなかには、理事長の大山さん以外にもうひとり、長老というか、リーダー然とした人がいた。彼は太い杖をついて人々から少し離れたところに一人で立っており、鷲のような鋭いまなざしで状況を見据えながら、時折管理会社の対応の悪さを厳しく非難した。「長部」というその人物は、大山さんの前の代の理事長だということが後でわかった。
とりあえず1回目の集会は、その瀬戸という人が救ったような格好で終わった。その後何度か“駐車場集会”が行われたが、だんだん瀬戸さんは理事会の助っ人というか、ブレーンのような役割を果たすようになっていった。理事会、といっても輪番制で回ってくる世話役の集まりである。基本的には建築にも法律にも精通していない素人の集まりで、瀬戸さんのような専門家の援助を必要としているのだろう、と僕は推測した。
4月に入ると、待望の水道とガスが通じた。これでやっと、洗濯も風呂もトイレも自由に使えるようになった。飲料水をペットボトルからいちいち移さなくても済むようになった。歯磨もシャワーも思いのままだ。なんという自由!しかし正直に言って、現在このときの感激を思い出そうとしても、どういうわけかそんなにはっきりとは思い出せない。便利になる、ということはすぐに当り前になってしまって心の奥底にはとどまらないものなのかも知れなかった。
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