[第1部 被災](15)
仲裁センターの意見書
7月に入って、ようやく仲裁センターの意見書が出てきた。
「まあとにかく見てください」と理事長の賀来さんがコピーをとって理事に配布した。
C棟の会議室は冷房も扇風機もない。そこへ12人も集まるので、ただもう暑い。窓から時折、ぬるい風が吹き込んでくる。ホッチキスで留めた4枚(8ページ)のA4サイズの書類がみなの手元に配られた。左上に担当した3人の弁護士の印鑑が並べて押してある。
皆、黙って読んだ。
意見書の内容は、要約すると次のようなものだった。
「ふうん。はっきり書いてあるなあ」とプーさんが煙草をくわえながら言う。
本来5棟であるはずの(登記上はそうなっている)このマンションを4棟としているのは、「C棟には独自のエレベーター、階段がなく、それらの機能はB棟に依存していること」がその根拠だった。また、マンションを新しく建替えるのに要する費用(「再調達価格」という)と修復費用を比較すると、「再調達価格」の方が遥かに高額であることがわかったので、区分所有法上は「建替え」の議決を得ることは不可能だとしている。(もし逆に、「再調達価格」よりも修復費用のほうが高ければ、8割賛成で建替えられる、というルールがある)但し、「全員一致」なら話は別、というわけだ。
しかし勿論、「全員一致」なんてことは現実にはありえないことだった。以前にも述べたが、このマンションは敷地に余裕がないことから、A棟ならA棟だけを建替えるというような、「部分建替え」をすることが出来ない(建築基準法の要請)。だからここでいう「全員一致」というのは、文字どおりマンション全棟の住民235戸の「全員一致」を示していた。
8月に入り、我々理事会の任期も終りに近づいてきた。9月末に定期総会を開いて住民に新メンバーの承認を求め、彼等と交代するのだが、実際は業務の引き継ぎがあるので、8月には新しい12名のメンバーを決め、顔合わせを済ませておかなくてはならない。ところが、このややこしい時期に理事をすんなり引き受けようという人はまずいない。ほとんどの人は昨年と同様、あれこれと口実を考えては断わろうとしてきた。
いわく、「日曜日も仕事がある」「子供の運動クラブの顧問をしている」「親の面倒を看なくてはいけない」「高齢で歩行困難であり、会合に出席できない」等々。僕が渋った時と同じだ。それでも各理事は根気強く住民を説得していった。本来、輪番制なので次のメンバーは自動的に決まるのだが、「いやがって誰も理事会に出てこないようでは、このマンションの再建はできない。やはり責任感のある人を選ばないと」というのが賀来さんの考えだった。そうして1人、2人とメンバーが固まっていき、最後に僕のブロックの後任だけが決まらずに残った。
「あとは三島さんだけやな」とプーさんが煙草をふかしながら言う。
「あんましプレッシャーかけないでね」と僕。
「結局誰にやってもらうの?」
「佐野さん」
「え、あの三島さんの真下に住んでる頑固じいさんかいな、あれは無理なんとちがう?」
「無理でも、頼まんと。他にいない」とやりあっていると、賀来さんが
「三島さん、実は僕ね、先週佐野氏に電話したんや。そしたら例の調子で今の理事会のことボロクソ言いよって“あんな仲裁センターのいいかげんな意見書なんかと心中できるか”って言うから、“そんなら、あんたが出てきて理事やったらええですがな”と誘ったら、“おお、わかった、いつでもやったるわ”って言いよったよ」と報告してくれた。
「そうですか、これで決まりですね」と僕はほっと肩の荷を降ろした。
ところが、理事会から正式に「理事就任依頼書」を佐野さん宛に出すと、2〜3日たって佐野さんの奥さんがその依頼書を持って管理人を訪ね、「私どもは、こんなもの引き受けた覚えはございません」としらっとした顔で書類を事務所に放り込んでいったという。
「あのタヌキおやじめ」と僕は唸った。これでまた振り出しだが、時間がない。
新メンバーの確定は先送りになってしまった。
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