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[第1部 被災](6)

猫のおじちゃん
 

このころ、この「オピニオン235」にはちょっと毛色の違う意見も載っていた。投稿したのは僕と同じE棟に住む池谷さんという人で、この人は西宮・芦屋・神戸の被災マンションを訪ね歩き、その1つ1つについての復興の現状をレポートしていた。それによると、震災後半年を過ぎて、すでに修復を完了したマンションがかなりあり、そのうち数戸が売りに出され、売買が意外に高い値で成立しているものもある、ということだった。おそらく、この時点ではまだ復旧しているマンションの絶対数が少なかったので、被災物件でも高い値がついたのだろう。修復では到底資産価値は回復しないだろう、と思っていた僕にとって、このレポートはちょっとした驚きだった。池谷さんというのはいつもマンションの中庭に出て猫を膝に抱いてひなたぼっこをしているおじいさんだった。すでに定年退職しているらしく、平日の昼間から中庭に出て猫を遊ばせているので子供たちに人気がある。うちの5歳の長男も「猫のおじちゃん」と呼んで親しんでいた。黒猫を3匹ほど飼っていて(このマンションは古いためか、動物を飼うことが許されている、いまどき珍しいマンションなのだ)子供たちに触らせてくれる。夜になると駐車場や自転車置き場を懐中電灯を持って巡回し、よそのアパートから忍び込んできてタイヤに釘を刺そうとしている高校生やシンナー遊びをしている中学生を見つけては追い払っているらしい。痴漢を見つけて警察に突き出したこともあるという。どうしてここまで細かく知っているかというと、本人が直接僕にしゃべってくれたからだ。とにかく話好きで、マンションの住人を誰かれとなくつかまえては、世間話をして情報収集している。ここには管理会社から派遣された管理人がちゃんと1階に住んでいるのだが、その人よりも池谷さんのほうがはるかに管理人っぽかった。
 
僕が池谷さんと初めて話をしたのは、初夏の土曜日の朝のことだ。パジャマ姿であくびをしていたら、突然呼び鈴があったので玄関に出て見ると、池谷さんが紙袋に直径3cm程の赤い木の実を4〜5つ入れて立っていた。
「どうしたんですか?これ」
と聞くと、僕に紙袋を手渡しながら、
「これ、“ヒメリンゴ”いうてな、いま中庭に一杯実が生ってるやろ。シンイチ君(長男のこと)と約束してたんや。今度実が生ったら持って来るって」
と言い残し、そのまま去っていった。不思議に思って、後でモソモソ起きてきた息子に聞くと、
「うん、去年約束したよ。来年持ってきてねって」
とうれしそうに話した。去年?と僕はぼんやりした頭で繰り返した。
 
この池谷さんには車で「ワインが安く手に入る」酒屋に連れていって貰ったこともある。日曜日の朝、僕がたまたま駐車場の横を通りかかると、古いアコードワゴンの運転席から池谷さんが手を振っているのが目に止まった。
「ええ天気やな」
「そうですね、快晴ですね」
「三島さん、あんたワイン飲むか?」
「ええ、まあ。割と好きですよ」
「わしこれからワインをまとめ買いしに行くんや。よかったら一緒に行かへんか?」
「へえ、そうですか。いまですか?行きましょうか」
「3本で990円や。それでも結構いけるで」と池谷さんはドアをあけて僕を助手席に載せ、エンジンを吹かして、アコードを発進させた。未だ工事中の住宅街を抜け、夙川を渡り、国道171号線を東へ向かう。そうしてハンドルを細かく切りながら、
「今度は64やな」と突然につぶやく。
「えっ、なんですか?」
「8月に総会があるやろ。6:4で建替えが少し上回る。」
「なんでそんなことが今わかるんですか?」
「そらあ、いろいろ話したらわかってくるがな。三島さん、あんたとこは建替え希望やろ」
「ええ・・弱ったな。筒抜けですね」
「別に弱らんでもええがな。そやけど建替えは・・・できん。無理や」
「どうしてですか?」
「いまにわかる。・・ほら、もう着いたで」
その「グレコ」という酒屋は震災の被害が少なかったのか、壁やガラスに傷跡もなく、店内は赤や緑のカラフルなデザインで結構にぎわっていた。確かにワインの種類が豊富で、しかも大層安い。
「わしは会員やさかい、わしと一緒に買ったらあんたも割引してもらえるで」
甘いドイツワインにするか、あるいはちょっと辛いイタリアンでいくか、それとも流行のチリワインは?などと悩んでいるうちに池谷さんはさっさと3本990円の定番ワインを持ってレジに行く。結局よくわからないままにカリフォルニア産を1本(550円)カゴに入れながら、僕はさっき彼がいった言葉が引っかかっていた。
 
8月。決議ルールが決まらないまま、臨時総会が開かれた。場所は、西宮市役所のすぐ近くにあって200名以上収納できる勤労会館。2月の集会以来住民をリードしてきた瀬戸氏と、弁護士の仕事をしている中島さんという方が理事会のアドバイザーとして壇上に着席していた。中央には理事長の大山さん。他に理事が6〜7名。建替え派、修復派がそれぞれの意見を述べたあと、ここで住民投票が行われた。但し、法的根拠が定まらなかったので、これは現時点での住民の意向を確認するアンケートのようなものだ、との説明が、アドバイザーの中島さんからなされた。結果は池谷さんが予想したとおり、建替え希望が6割、修復が4割だった。マンションの方針を決定する時の法的な根拠となる「区分所有法」においては、建替えは最低でも8割の賛成が必要、一方修復は最低でも5割必要だった。今回の結果はそのどちらにも届いていなかった。バランスの良い平行線。このままでは永久にどちらを実施することもできない。大山理事長は「何か良い方法があれば、我々理事に提案してくれ。」と大声で熱っぽく皆に語りかけた。しかし妙案は出なかった。マンションは難しい状況に入っていった。

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