[第1部 被災](17)
震災の状態のままで止まっている
10月、やっと理事会から解放された。まるまる1年、ほとんどの日曜日を費やして議論や資料作りに追われてきたのでちょっと虚脱状態になった。体が軽くなったような気がした。
「やっと日曜日が休めるぞ」と大声で叫びたくなる。
しかし次の体制はどうなるのか?理事会の場で賀来さんが教えてくれた。理事長は瀬戸さんになったらしい。これは厄介なことになるぞ、と思った。彼は敵が多いのだ。
プーさんは一足先にこのことを知っていて、
「あそこの家庭、もう大変や。いままでも須崎から嫌がらせの電話、一杯かかってきとるのに、奥さんは“なんでそんなん引き受けるのよ、この家どうなってもいいの”って言うてるらしいで」
旧理事はみな、沈黙してしまう。理事長の仕事が如何に大変か。そばで見ている僕たちにはそれがよくわかっていた。賀来さんは就任時、すでに退職されていたが、瀬戸さんは設計事務所の現役の社長なのだ。この困難なマンション再建に取り組みながら、事務所の運営、子供2人の家族生活を同時にやっていけるのだろうか?
9月末の最後の定期総会で、瀬戸さんは理事長に正式就任し、方針演説で
「仲裁センターの意見書は、最大限尊重する。が、あくまで結論を出すのは住民自身である。住民全員が納得できるよう、理事会は力を尽くす」と宣言した。するとすぐに佐野氏が手を挙げて、
「今のお話ですと、要するに仲裁センターの意見書は一旦棚上げということですな?」と発言、相変わらず意見書をつぶしたがっているようだった。しつこい奴らだ。
副理事長の2人のうち、皆川氏は陽気でスマート、スーツがよく似合う人で、マンションの管理会社の親会社の重役をやっているらしかった。もう一方の出原氏はブルドッグのような顔で、鼻の下にチョビ髭をたくわえている。こちらは近年会社を退職し、悠々自適の生活らしいが、経理畑の仕事が長かったので、こういうこじれた案件を処理するのにはうってつけの人物だという。(以上、池谷さん情報)分厚い縁どりの眼鏡をかけていてその奥の瞳が時折りぎらりと光る。見るからに怖そうで、敵にまわしたくない人だ。冷房のある会場でも1人しょっちゅうタオルで汗をぬぐっている。この出原氏が理事長になるのがベストの選択と思われたが、実際にはこの人より10才ほど年下の、ソフトな物腰の瀬戸さんが新しいリーダーになったわけだ。
「やっていけるのかなー」僕は妻と買い物をしながら、JR芦屋の駅前のデパートから出て、コープへ向かう歩道を歩いていた。秋空の日曜日だったので周りは家族やアベックで賑わっている。
「大丈夫よ、瀬戸さんしっかりしてるから。いまでも毎週武庫川まで走ってるし、体力あるもん」
「でも建替え派はみんな瀬戸さんを毛嫌いしている。特に須崎はどうも個人的な憎しみをもってるようだな。だから・・」
「あ!」と妻が叫んだ。なに?と彼女のほうをみると、妻は買い物袋をもったままミスタードーナッツのほうへ猛然と駆けていった。何が起こったのかよくわからないまま後を追いかけると、50mほど向こうで、田代さんが女性と一緒にダイエーのビルに入ろうとしているのがちらっと見えた。
「そういうことか・・」と僕も走っていってそのビルの中に入ると、電気店の前の広場で妻が2人をつかまえてワイドショーの突撃レポーターまがいのことをやっている。田代氏は前から「最近付き合ってる子がおんねん・・」と訊きもしないのに自慢してみたり、そうかと思うと「昨日の晩、うちのマンションに引っぱり込んで泊めたろ思たんやけど、夜遅くなってから“帰る”言い出してそのまま姫路の実家へ帰ってしもてん。どないしよ・・」と泣き言をいったりしてたのだが、ついにその正体をあらわしたということか。見ると、小柄なほっそりした女性で、年は30くらい。田代氏は45才だから、ずいぶんと若い。
「とうとうばれちゃったね」と言ってみる。
「んーまあな」と彼は照れ笑いをしている。先週、実家の親に紹介したらしい。彼女はやや緊張しているが、愛くるしい雰囲気である。ええやんか、お似合いやんか、と妻と2人でさんざんいじめる。それにしても日頃茫洋としている妻がこういう時だけ異様に敏捷な動きをみせるのに驚く。やはり女性というのはよくわからない生き物である。
11月になると、マンションがどうの、理事会がどうの、という問題意識は僕の頭から次第に遠のいていった。なるようになるだろう、今度の理事会は瀬戸さんはじめ、実力者が集まっている(僕の住むE棟では、弁護士の中島さんが選ばれた)ので、きっとこの人達の任期中には解決するだろう。彼等に任せておけば、大丈夫だ。それよりもこの1年間放ったらかしにしていた自分の生活を取り戻さなくては、という気持ちの方が強かった。
震災のとき脊髄の手術で入院していた父親はすでにその年の夏に退院し、震災前から計画していた両親と兄家族の2世代同居の家も無事完成し、そこで暮らし始めていた。1996年には長女は小学校6年になっており、中学の受験を控え、塾通いの毎日だった。会社の帰りに、駅前にある塾の前で娘が勉強を終って出てくるのを待ち、一緒に帰宅することもしばしばあった。ちょっと職場仲間と飲んでから帰ると、ちょうどよい時刻になった。娘と2人で自転車をこいで帰る駅前の商店街やら住宅やマンション群はどれも修理され、あるいはさら地になって建替えの工事が始まっているものばかりだった。震災の状態のままで止まっているのは、うちのマンションだけだった。
11月の終り頃、東京出張からの帰り、僕はJR芦屋駅からタクシーに乗った。夜の9時頃で小雨が降っていた。ドアが閉まると、タクシーの運転手が軽い口調で聞いた。
「どちらまで?」
「セントラルハイツ。」
「ああ、あそこ、まだあのままやね」
「そう、ちょっともめててね」
「難しいんやろねえ。そういえば、この間あのマンションの近くを通ったら、テレビ局の車がとまってて、中からほら、なんとかいうお笑いタレントが出てきて、レポートしとったで。確かニュース番組や」
「ええっ、そんなことあったんですか?なんていうタレントですか?」
「んーー、そうや!はざま寛平や」
「へえ、それって“ニュースインナイト”じゃないですか?」
「そやそや、ニュースインナイト。そんでわしも気になってな、車、マンションの角へ横付けして、こっそり彼等のあとをつけていったんや」
「彼等って、寛平ちゃんのこと?」
「それとスタッフやな。カメラマンとか、マイクの助手とか。そしたら奥にある会議室みたいなとこへ入っていったで」
「ああ、そこ、いつも理事会やってるとこです。僕もこの9月まで理事やったもんで」
「さよか。そこに4〜5人集まっとってな、なんやらインタビュー受け取った」
「ふーん、理事会は知ってるんかな・・」
「それって不穏な動きちゃいまっか?」
運転手はなんだか面白がっているようだったが、いやな予感がした。
この件は特に理事に確かめることもなく、僕もいつのまにか忘れてしまっていたのだが、翌1997年の1月、「震災3年目」を記念したニュースインナイトの番組「いまだ復興できないマンション」特集で、この時の映像が全国に放映された。コンクリートが剥離したマンション壁面の傷跡とともに画面に登場したのは、須崎・佐野を筆頭とする建替え派5名だった。彼等は理事会の許可なしに、「西宮セントラルハイツ」を代表して行政の対応の遅さや被災マンションに住み続ける苦しさ、そしてさりげなく「建替え」が資産価値の面で有利であるとのコメントを、テレビカメラに向かって勝手に演説していた。
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