見出し画像

[第2部 復興](16)

そびえ立つクスノキ


10月の末ともなると風が少し冷たい。ベージュ色の半月がぽっかりと夜空に浮かぶころ、僕たちは思い思いの格好でくつろいでいた。
「遅いね、田代さん」と僕がプーさんに言うと、さっきからチーズを爪楊枝で突いていたプーさんが
「まあ気ばってはんねやろ」とにこにこしながら言う。
「しかしはやく来ないと、折角のスープが冷めまっせ」と賀来さんがビールグラスを傾けながら言う。
「ホンマや」と池谷さん。バーテンダー風の店員さんが
「大丈夫です。すぐに暖め直しますから」と気を遣ってくれる。
「おい、もうやろやろ、あいつのこと待ってたら日が暮れる」とややせっかちな瀬戸さん。 しかし急ぐ必要はないのだ。もうとっくに日は暮れているのだし。
「ゴメンなさい、お待たせしてー」とその時、ピンクの素敵なドレスを来た花嫁が入り口に姿をみせた。「おお、主賓が来なすった!」と長部さんが大声で迎えた。
「はじめまして。お世話になります」と先日挙式したばかりという田代夫人は、ミスタードーナツの前で妻が発見したときと同じように、愛くるしい表情をふりまきながら僕と賀来さんの間に着席した。
「旦那は?」と向い側の瀬戸さんが聞くと、
「それが、ちょっと衣装に凝っていて到着が遅れそうなので、先に始めといてくれって」と申し訳なさそうに言う。だが申し訳なくはない。奥さんさえ来てくれれば、別段旦那には用はない。僕が小声でプーさんにそう言うと、プーさんも「まったく」と笑いながら、店員に「料理、どんどん運んで。それといま来た彼女にグラス1つ!」と大声で注文する。 まったくこの人は普段は茫洋としているが、パーティ、宴会の類いになると安心して仕切りを任せられる。

あの総会が終わってから約1ヶ月が過ぎていた。僕も他の理事達も自分達の仕事や家庭の雑務に戻り、忙しくてなかなか打ち上げをやる機会はなかった。が、10月20日に田代さんが結婚式を挙げたので、そのお祝いを兼ねて、関係者が集まることになった。場所は阪急夙川駅のすぐ近くにある雑居ビルの地下、「チェロキー」というレストラン・バーだった。
「三島くん、胃のほうは?」と言いながら瀬戸さんが僕に白ワインを注いでくれる。池谷さんが「グレコ」で見つけてきた450円のチリワインだ。いつの間にかこっそり店に持ち込まれている。
「ああ、もうすっかり。いつの間にか治ってましたよ」と言うと、プーさんが「しかし瀬戸さんはタフやなあ、あんだけ毎日電話でいじめられてもびくともせんかった」
「いや、僕も三島くんと同じで、薬を飲んでいたんだ。血圧を下げるためにね」
「心臓でっか?そらいかんな」と賀来さん。長部さんもカボチャのスープをすすりながら
「いかんいかん。須崎に治療代、請求せな」と太い眉をしかめる。テーブルにホタテとサーモンの酢漬けが並べられる。
「瀬戸さん、いまでも武庫川まで走ってるの?」と僕が聞くと
「ああ、最近は中学の息子が陸上部に入ったんで、一緒に走ってるよ。帰りは時々追い抜かされる。もう年だよ」
「武庫川まで?片道10kmはあるんじゃないですか」と田代夫人が眼を丸くすると、
「そう、でも走ってるとイヤなこと忘れられるし。ストレス解消になるよ」「あのへん景色きれいですものね。春は菜の花が咲いたり・・」
「僕が行くところはちょっと上流の方、対岸に大きなクスノキが生えててね。辿り着くと、手頃な岩場に座って、しばらくそれをボーッと見てた。そうすると段々と心臓の動悸が収まってくるような気がしてね。特にこの1年は、毎週この木を拝むような心境だった」
「わかるな、それ」とプーさんが煙草をくゆらす。しばらく会話がとぎれ、僕は大きな河の向こう岸にそびえ立つクスノキの姿を想い浮かべた。それは風が吹いても嵐になっても揺るがず、深く大地に根を下ろし、枝に宿る鳥やセミたちに静かにこの土地の歴史を語りかける、悠久の時を生きながらえてきた樹木のイメージだった。

「ちわーーー」と階段の方で甲高い声がする。
「あ」と花嫁が顔をあげた。ヨット男の登場らしい。
「お出迎えや」と池谷さんが彼女の肩を押す。
「もう、なにしてたん?」と彼女はつぶやきながら入り口へいくと、そのまま派手なタキシード姿の田代氏を連れてきた。濃紺のスーツに白シャツを蝶ネクタイで締め、胸には赤いバラが刺してある。
「おい・・」と瀬戸さんが思わず立ち上がった。ヨット焼けのタキシード男はもう半分酔っぱらったような赤ら顔で、
「いやあ、遅れてすまんすまん。こんなん着るの、生まれて初めてやさかい、要領が悪うてなあ」
「田代、おまえ、その格好でマンションから来たんか?」
「そや」
「車で?」
「いや、歩いて。来る途中、近所の人とやたら道ですれ違うてな。俺、消防団入ってるやろ、そやからこの辺の人、みんな顔見知りやねん。もういちいち説明せんならんよって」
「それで遅うなったんか。もう食べるものあらへんで」池谷さんが笑いながら2本目の赤ワインの栓を抜く。
「チーズならまだある」と爪楊枝を持ち上げるプーさん。ジャズのスタンダードが店内にゆっくりと流れ始める。僕はちょっと酔いが回って、ワイシャツのえりのボタンを外した。どうやら今日は夜更けまで、この仲間たちと飲み明かすことになりそうだ。([第2部 復興]完)

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?