[第2部 復興](1)
一本の電話
7月の終り、夏の夕暮れの光が残る中、僕はいつものように会社の仕事を終えて電車に乗り、西宮の自宅に戻ってきた。頭が昼間の業務から解放されるにしたがって、次第にぼんやりとしたゾーンに入ってくる。そのぼんやりした頭で、このマンションの問題…数日前の住民総会の結果を反趨するのだが、何も見えてこなかった。缶ビールをあけ、冷奴と豚の生姜焼きをつつきながらも、虚ろな気分が続いていた。妻が台所に立っている。
「なあ、今年の始めの“ニュースインナイト”で、確か未解決のマンションは9ケ所、って言ってなかったっけ」
「そうねえ、そういえばそんな気もする」
「そうすると来年の震災4年目特集ではさ、うちだけしか残ってないんじゃないかな」
「そうかもしれないわね」
「有名になっちゃうな」
「そうね」
虚ろな会話だった。息子のシンイチが、虫かごにキュウリや大根を薄く切って爪楊枝で刺したものを入れようとしていた。
「シンイチ、それ何が入ってるんだ?」
「鈴虫だよ。たっちゃんのお母さんにもらったんだ」
「たっちゃんて誰?苗字は?」
「中島さんよ。7階にいらっしゃる、」と妻が代わって答えた。
「ほら、理事の。弁護士をやってらして。奥さん、きれいな人よ。鈴虫がたくさん増えたらしくて、おすそわけ。」
「ああ、あのJフェリーに乗ってる人な・・」
僕と妻は、日産のJフェリーという車のデザインが好きで、このマンションで唯一その車を保有している中島さんに興味を持っていた。この車が登場したとき、宣伝コピーで「美しい妻といっしょに」というのがあり、こりゃ自信のない人は買わないんじゃないかな?と思ったら、案の定ヒットしなかった。中島さんは自信あるのかな?と妻に言うと、妻は「それはそうでしょう。でなきゃ買わないわよ」と見解を述べた。
僕はふと、中島さんと話をしてみようと思い、電話の受話器をとった。理事であり、弁護士でもある彼は、いま何を考えているのか?
「美しい」奥様が電話に出た。ご主人は仕事から戻っていない、とのことだった。9時を少しまわった頃、今度は向こうからかかってきた。ご主人だった。「こんばんは」と僕は挨拶した。
「三島さん?いやあどうもどうも。暑いですねえ」と若々しい声が響いた。中島さんは多分僕より少し年下、30代半ばぐらい。外から帰ってきたばかりなのか、少し息をはずませながら、
「この間は総会出席、ご苦労さまでした。せっかくのお休みをつぶしてしまって」
と丁寧な口調で語りかけてきた。
「いえいえ、そちらこそ1年間大変だったでしょう。お疲れさまでした」と僕。
「しかし結果が出ませんでしたからねえ。困ったもんです」
「あれでもう、やめちゃうんですか?」と聞いてみる。
「うーん、どうなんでしょうねえ。あの提案は理事会の信任の意味も含んでいましたから。あれが否決されたということは、我々も不信任だったと」
「そうなりますか?」
「そう解釈した、ということでしょうね。瀬戸さんや、我々が」
「ふうん。で、このままいくと、どうなるんですか?」
「さあ、多分・・・次の理事にバトンタッチするんでしょうね」
「次やる人、いますか?」
「いませんね」と中島さんは苦笑しながら答える。僕もつられて少し笑う。
「じゃあ、どうします?」
「わかりません、僕にも。三島さんはどうすれば良いと思いますか?」
「問題はE棟ですよね」
「その通りです」
「あとの棟はいいわけだ」
「あとの棟は修復でいけます」
「E棟だけ、いけない」
「そう」
「じゃあ、E棟集会をやりますか?」と僕は口にしてみた。
「集会を?」
「ええ、確か住民の1/5の署名が集まれば集会開けるんでしょう?E棟は確か50戸くらいだったと思うから、10戸くらい集めればいい。それくらいすぐ集まりますよ」
「それ、三島さん、やりますか?」
「本当は理事さんにやってほしいけど…」
「いま、僕たちはそれができないんです。この間の総会で“理事は降りる”って宣言しちゃったもんだから」
「そんなの別に気にしなくていいんじゃないですか」
「だめなんです。理事長が動かない」
「瀬戸さん、潔癖症なのかな?」
「それも多少ありますが、毎晩電話がかかってきて…」中島さんの声が低くなる。
「須崎から?」
「おっ、よくご存じですね」
「前に瀬戸さんから聞きました。毎晩ですか?」
「ときには朝早く」
「たまらんな」と僕。
「彼、クリスチャンでしょ?汝の隣人を愛せよ、で反撃しない」
「どんなこと言ってくるんですか?」
「おまえ、“降りる”言うたけど、裏でごそごそやってるんちゃうやろな、もしそんなことしてたらすぐに住民にばらして、訴えるぞ、って」
「ほう、すごい」
「それと定岡組との関係も疑っているらしい」
「建設会社の?ワイロをもらってるとか?」
「そう。キックバック。理事会は、20年前の建設時にミスを犯している定岡組を今回も起用しようとしている。これは裏で金が動いているに違いない」
「でも確かこの間の説明会では他の3社と競争入札して決めたって言ってたじゃないですか」
「そう、それが事実なんですけどね。ああいうのは疑えばきりがない」
「それを電話で言ってくる?」
「毎晩。今日はこういう証拠をつかんだ、とかいって。いまからマンションの中庭でスピーカーで大声で叫ぶぞ、とか、今からおまえの家に乗り込んでいって首をしめてやるぞ、とか」
「本当にやったの?」
「しないしない。脅しだけ。彼はみせかけだけ。でも瀬戸さんが反撃しないからいい気になっている」
「盗聴マイクしかけたら?警察に通報すればいい」
「理事会も皆そう思っている。何度も瀬戸さんに忠告している。僕も弁護士として忠告している。でも、やらない」
「そんな。“隣人を愛してる”場合じゃない。家族は?」
「なるべく日中は家に居ないようにしてるみたいですけどね。芦屋に奥さんの実家がある。でも理事長という役を背負っているから電話を切れない」
「それでも話し合いをしていこうと?」
「それがあの人の信念なんです、頭が下がりますよ。なにもなければいいけど・・」
ちょっと間があいた。そのとき、玄関でガサっという物音がした、ように思った。
「で、どうしましょうかね・・」僕は声が小さくなっていた。そういう人間を敵に回すのはちょっとしんどい。
「三島さん、降りた我々があなたに無理を言える立場じゃない。だから何も言いません。でも、動いてくれたら、うれしい。それは理事会が望んでいることそのものです」
「1つ、質問があるんですけど」
「はい」
「もしE棟だけ集まって、もう一度議論して、投票したとしますね」
「はい」
「その結果、この間と違って、3/4以上の賛成票が集まったとしますね」
「はい」
「すると、どうなります?ほかの棟はもうOKなんだから、全体としてもOK、となりますか?法律上」
「それは、なります」
「そうですか」
「法的には完全にOKです。ただ、住民感情としてどうか。これはその事態になってみないとわかりません。もし、それでは不十分だ、という声があがるようなら、そのときは改めて全員集会を開けばいい」
「そうですね」
「三島さん、2〜3日後にこの間の総会の議事録が配布されます。今回は記名投票だったし、非常に重要な決議だったので、賛成・反対・保留それぞれの氏名が全部公表されます。誰を狙えばいいのか、はっきりしますよ」
「けしかけるなあ・・」
「ハハハ・・いやここんとこ、僕も女房も落ち込んでいたんですが、急に元気が出てきました」
「やりますか」
「やりましょう。いや、やってほしい。僕もできることはバックアップします」
「多分、すぐお願いすることになると思います。僕は、法律は何もわからない」
「じゃあ、また電話してください。とにかく、がんばってください」
電話が切れて、リビングが静かになった。どういうものか、僕はもうやることを決意していた。もっとも何をどうやるかは、いま1つわかっていなかったが。
<僕はそういうことをやる柄じゃない>ともう1人の僕が言う。そう、確かにその通りだ。しかし、これはもう決まったのだ。これはもう変えられないのだ。
そう思っていると、妻がやってきて、黙って僕に1枚の紙を差し出した。
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