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[第2部 復興](4)

黒猫とジャズの部屋


月曜と火曜の2日間であっけなく11名の署名が集まると、僕は自転車に乗って阪神西宮駅の近くにあるNTTのサービスセンターに赴いた。自宅の電話番号を変更するためだ。署名活動が公になれば、須崎氏らの攻撃を受けることは目に見えている。以前夜中に正体不明の男から無言電話がかかってきて家族全員がノイローゼになりかけたことがあり、もうそういうのはご免だった。番号を変えると、会社や親族、近しい友人に通知しなければならないので面倒だったが、やむを得ない。変更したことを管理人に届けるべきか、少し迷ったが、事情を全部話して届けないことで了解を得ることにした。管理人は僕が理事をやっていたときの「西条さん」から、すでに「望月さん」という人に代わっていた。西条さんは几帳面に仕事をこなす、実直な人だったが、意外にも定年を待たずに1年と少しで管理会社をやめ、広島の郷里に帰ってしまっていた。池谷さんの話では、
「須崎ら、5人組の攻撃を受けてたんやろ。真面目なおっさんやったからなあ。あの人も犠牲者や」
代わりにやってきた望月さんは、まったく逆の、おしゃべりが発散していくタイプで、僕が状況を説明するとニヤっと笑い、
「あんさんが頼りやさけ、がんばりや」といって僕の肩をポンと叩いた。再び池谷さんに言わせると
「イタリアが好きらしくて、もう夫婦で10回以上旅行しとる。そのたんびにワインをひと山買うてくるそうや。この間わしもおすそわけして貰うた。最近は、わしとふたりで例の『グレコ』へ行っては3本990円のワイン買って飲んでるわ。」とのこと。日頃マンションの中庭を歩いている姿をみても、アル中ではないか?と思われるほどふらふらしている。こんなんで大丈夫やろか?と人ごとながら心配になってくる。
署名が11人分集まったので、とりあえず火曜の夜、大山さんへ電話をすることにした。ご主人がでた。
「あ、三島です。どうもこの間はお邪魔しまして」
「いえ」
「で、あのあとE棟を回りまして、みなさん割と気楽にサインして貰えまして、11名無事集められました」
「そう」
「ご報告しようかと思いまして」
「わざわざどうも」
「・・ではまた。」
「はい」
妻がうしろで聞いていた。僕がじっと受話器を置いたまま黙っていると
「どうしたの?」
「なんか変だな」
「なにが?」
「あまりうれしくなさそうだ、というより…」
「いうより?」
「なんか感情がないみたいなんだ。この間会った時はすごい情熱を感じたんだけど」
 
水曜日。規定の11名を確保したので、いよいよ建替え派の切り崩し作戦を開始することにした。わが家を作戦本部とし、池谷さんに来てもらい、参謀長官になってもらう。“一覧表”を食卓に広げ、2人でどこから攻略するかを考える。誰がいいか?総会議事録の資料をめくってみると、E棟で反対した人17名の氏名が載っている。そのうち須崎、佐野を含む4名は、すでに総会や棟別集会で建替えを訴えてきた核となるグループなので、これは除外。こちらの動きを悟られるだけ損である。また彼等の息がかかっているらしい人や、すでにマンションを出ていて連絡がつきそうにない人も除外する。とすると・・
「そやなあ、わし『辻』のとこをひっくり返すわ。あいつ結構ものわかりええんや、ちょっと佐野にたぶらかされてるだけでな」
「じゃあお願いします。僕は、前に一度会ったことのある矢車さんところへ行ってみます」
「ああ、あの人も頭脳明晰な人やさかい、大所高所から話せばわかってくれはるやろ」
そう言いながら、妻の出した麦茶を飲んで、額の汗をぬぐった。
矢車さんはうちと息子同士が中庭でミニ4駆で遊ぶ間柄で、旦那も奥さんも知っている。理事長の瀬戸氏とも親しいと聞いている。ひっくり返す相手としては一番距離が近く、可能性があるように感じた。
 
「ああ、三島さん?入って入って」
午後8:00を過ぎてようやく夏の夜らしい雰囲気が出てきたころ、僕は4階の矢車さんの家を訪れた。
中に入ると、黒猫がのそりと廊下に現われ、隣の部屋に入っていく。おや、猫を飼っているのは池谷さんだけじゃないんだな、と思うと、渋いジャズの響きが聞こえてくる。艶のあるトランペットの響き。こもったようなピアノの低音とベース。
「いいサウンドですね」
「安物よ。でもね、それなりにバランス考えてね。スピーカーあっち置いたりこっち置いたりして。狭いから大差ないんだけど。あ、これ」と水割りを渡される。
「三島さん、いけるんでしょ?」
「いや、下戸に近いです。でもまあ」と乾杯する。2人でぐいとあおってグラスを置く。矢車さんが自分の煙草に火をつける。
「昨日ね、島根県のキャンプ場から帰ってきたとこなんだ。まだ暑いね、どこも。三島さんとはさ、いっつも駐車場で挨拶するだけで失礼してるね、息子がお世話になって」
「こちらこそ、お子さんによく遊んでもらってる」
トントンと包丁の刻む音。奥さんは台所でなにかつくってるようだ。
「かまわんといてくださいよ」とその方へ向かって声をかける。
「チクワかなんか切ってるだけですよ。煙草は?」
「いえ、まったく。なんにもしないんですよ」
「そう、」と矢車さんはうまそうに吸う。
「で?なんかマンションのこと?そういえばいつか、沢田さんの家でお話ししましたね」
「ええ、須崎さんとかいて。結構盛り上がってましたけど・・」
「盛り上がっても結論が出ない。あれからもう2年経ちましたかね。相変わらずだ、このマンションは」
としばらく横を向いて、煙草を吸う。リズミカルな曲が終って静かなバラードになる。「星影のステラ」か。
「まあでも修復になるんでしょ?この間の総会の結果だとE棟が3名足らないだけだったっけ?」
「4名です」
「4名。そんなのすぐじゃない。瀬戸さんも『降ります』なんて言わないで、続けりゃいいのに。もう1回やりゃあ決まりでしょう。このままじゃ無責任だよ」
「そう言う人もいますね…」
「これじゃどうしようもない。理事以外の人が署名運動とかしない限り」
「実はいまやってるんです」
矢車さんは煙草を口から離して僕を見た。
「そうなの?」
「はい。僕が」
「集まった?」
「もう1/5は超えました」
「そう…」奥さんがチーズとちくわを切ったものを小皿に乗せて運んできた。にっこり笑って戻っていく。代わりに坊やがお父さんの膝の上にのろうとする。
「大助、こっちきなさい」とお母さんに叱られる。矢車さんが静かに煙草をもみ消して、椅子に深く座りなおし、手を組んだ。
「三島さん、僕はやっぱり建替えだな。ご存じかもしれないけど昔から仕事でビルのメンテナンスとかやっててね。結構そのあたり詳しいんですよ。で、そういう眼でこのマンションの亀裂をみたら、かなりズサンだよ、これ。ボロい。基礎が弱いと思う。よくこれで倒壊しなかったな。それをまた傷口を塞いで、化粧して、お茶を濁そう、っていうんでしょう?言っとくけど、理事会が提案してる「復興委員会」だっけ?応急の修復が終ったら、建替えも含めてじっくり考えましょう、っていうヤツ。あんなの絶対無理だよ。だれも参加しない。修復が終って傷口塞がったら、もう2度と建替えようなんて気にはならない。関心なくなるよ。だから建替えるなら、いましかない。ワンチャンスなんだ。そう思わない?」
「そこはそう思いますよ。でもね、それ、無理なんです、矢車さん。わかるでしょ?」
「わかってるよ」
「だったら…。ここで矢車さんに反対されると、結局なんにもできなくて、ここはずうっとこのままですよ」
「そうはならないよ。次の投票で修復に決まるさ。ところで三島さん」
「はい」
「集会はどういう形でやるの?」
「E棟集会ですね。集まった署名を理事会に提出し、E棟の理事に集会を開催してもらう。それが駄目なら、自分でやります」
「ほかの棟の人は?」
「他棟の決議はこの前採っています。修復です。だからあとはE棟だけだと」
「そりゃ駄目だよ、三島さん。だってそのときになって、例えばA棟の人はどう考えてるか、わからないじゃない。もう気が変わってるかも知れない。だからもういっぺんやるなら、もう一度全体の総会を開かないと。でなきゃ、フェアじゃないよ。おかしいよ。僕はそういうやり方、賛成できないな」
「法的にはね、大丈夫なんですよ」
「そうかもしれない。理屈はね。でも建替えの人は承知しないよ。気持ちが納得しない。僕も駄目だ」

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