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[第2部 復興](11)

全身に傷を受けたまま、ただ黙って耐えている


しかし実際には、それ以上票は伸びなかった。9月13日、総会の10日前、議案書が各戸に届けられた夜に、平林さんから連絡が入り、伊賀さんが疎開先の名古屋から断わりの電話をかけてきた、と僕に伝えた。
「修復なんて、中途半端だよ」と言い捨てたそうだ。思いのほか、わがままな人だった、と平林さんはつぶやいた。その翌日、今度は瀬戸理事長が、田畑さんとの交渉が不発に終わったことを告げた。
「不動産の仲介業者がいろいろ説明してくれてね、本人も、総会までにもう一度考えてみる、とは言ってたけどね」
「4Fの柴山さんはどうですか?確か、出原氏の息子さんが知り合いだとか」
「ああ、あっちは順調だよ。最初はぶつぶつ言ってたみたいだけど」
そのまた翌日、今度は賀来さんから
「三島さん、相談があるんだけど」と電話が入った。賀来さんは被害の大きかったA棟の7Fに住んでいる。僕が訪ねていってベルを鳴らすと、
「どうぞ」と奥から大きな声が響いてくる。家の中に入り、 廊下を通って行くと、賀来さんが一番奥のテレビの前のコタツにあぐらをかいていた。奥様がお茶とおかきを出してくれる。恐縮してざぶとんの上に座った。
「賀来さん、金田さんの件ですか?」
「金田さん?ああ、あれはもう大丈夫です、本人は総会には出席しないが、書面決議で『賛成』票を入れると約束してくれたから」
「そうですか、やりましたね。で、なんですか?相談って」
「実は先週、大山さんから電話がかかってきてね。お宅の棟の大山さん」
「ええ・・」
「いろいろ話したいっていうんだ。私と、長部さんと」
「はあ」
「大山さんと言えば、三島さんもよく知ってるように、あの震災の時の理事長だった人、私の前任者だ。だからこれは良い機会だ、我々が今やってる住民運動をよく理解してもらって、仲間になってもらおう、と長部さんと相談し、この間の日曜日に大山さんの家へ行ったんだ」
「はい」
「そしたらなんていうか・・ちょっと様子が変なんだ。そこで三島さんの名前も出てね。ちょっと気になったもんだから」
「それはですね・・」と僕は賀来さんに一連の出来事を説明した。
「そうか。どうもあの人、理事会に不信感を持ってるようだね」と賀来さんはうなづいた。
「ええ、僕もいまひとつしっくり来ないんですが、僕自身も理事会の手先みたいに思われてるようで」
「しかし思うところは同じでしょう?このマンションをなんとかしたい、そのためには修復の道しかないと」
「そこは同じなんです」
「じゃあなんでそういう風に勘ぐるのかな」
「わかりません。ただ大山さんがもし建替えのほうへ行ったら、影響力が大きいだけに困ったことになると思うんですが」
「そうだな、そんなことにはならないとは思うけど、まああまりあの人を刺激しない方がいいな」
「実際に会われて、どんな話をしたんですか?」
「いやまあほとんど世間話でしたけどね、あとは自分が震災直後からどれだけ苦労してきたか、という話。どうもあの人、須崎から相当攻撃を受けてたみたいですなあ。電話やらなんやらで」
「最初にターゲットにされてたみたいですね」
「わしのところへはあまりかかって来なかったんやが。そのあとの瀬戸さんところへもぎょうさんかけてきてるみたいやな」
「ええ」
「まあとにかくあと10日や、もうひと踏ん張りしましょう」
 
夜の8:00ごろお宅を出て、エレベーターで降りようとしたとき、このA棟の5Fに、副理事長の皆川さんがいることを思い出し、ちょっと挨拶に寄ることにした。この人はもともとは佐野、須崎等が発行していた「オピニオン235」のメンバーで当時は建替え支持者だったのだ。向こう側の様子を何か知ってるかも知れない。
「おおお、三島さん、いやまあどうぞ」 と声がする奥の方をみると、突然だったので、皆川さんはひと風呂浴びたのか、浴衣姿だった。
「いやえらい格好で。ようきてくれました、この拙宅へ。まあ、一杯」とグラスを差し出す。奥さんと晩酌の途中だったようだ。
「家内に何か作らせます、三島さんは水割りの方がいい?」
「いや、ビールで。酒は弱いもんで」
「そう、今回は本当によう動いてくれた。理事会としてお礼申し上げます。で、どうですか、E棟の様子は」
「いまいろいろ電話とかしてますが、厳しいです。ようやく3人。あとひとり、足りません」
「矢車へはアプローチしましたか?」
「ええ、8月のお盆のころ、ですね。お宅へ伺っていろいろお話したんですが、断られました」
「彼は、“オピニオン235”の仲間だったんだ。昔、震災直後のね。そのころは私も建替え派だった。なんとか住民の気持ちを1つにして建て替えられないものか。そう思って毎週、あの沢田さんのうちへ集まって、議論をし、あの冊子を発行した。佐野や須崎も一緒だった。だがその後、こうして理事になってみると、建替えがいかに難しいかがよくわかった。これはもう修復しかない、と考え直すようになりました」と皆川さんは奥さんが運んできた水割りをぐいっと呑んで、しばらくそのままじっとしていた。
「三島さんね、ようここまでやってくれた。あとはね、僕らに任せてください。私ら夫婦は、もう本当に毎日毎日このことを考え続けています。このA棟にはね、経済的にもう破綻寸前まで追い込まれている人もいるのですよ。いますぐ、なんとかしなきゃいけない。これから総会までにね、私らは敵の本丸に突入しますよ。まず佐野の家へ行って、彼等が何を考えているのか、彼等の本当の要求は何なのか、聴いてきます。それから矢車を誘って、沢田氏の家へいく。かつての編集会議です。三島さんご存じのように、沢田さんが転向しました。その場に矢車を入れて、3人で話し合えば、彼も考えを変えるでしょう。これが最後の戦いです。結果をあなたに報告しますから、待っていてください」
 
皆川さん宅を出て、エレベーターに乗って1Fまで降り、玄関から中庭へ出ると、満月の淡い光がマンションの敷地全体に降り注いでいた。中庭を横切りながら僕はこの2年半の間、全身に傷を受けたまま、ただ黙って耐えているこのマンションのことを想った。住民達の勝手な思惑のぶつかり合いが結局、建物の修復を遅れに遅らせているのだった。西宮や芦屋の他のほとんどのマンションはすでに修復、あるいは建替えを終え、売りにも出されている。この地域の人々は、もうあの大震災などなかったかのような平穏な空気の中で世界とともに流れ、変化していっているようにみえる。その中でこのマンションだけが取り残されている。ばかばかしいことだ、そう思った時、ふと懐かしいあのブルースの声が耳に響いた、ような気がした。震災のすぐ後、崩壊したビルの谷間で聴いた、あの唄う主のいない旋律だ。僕はその調べを想い起こしながら、その旋律にひかれるように中庭の中央にある大きな桜の木の方へ歩んでいった。桜の木は春になると四方に伸びる枝に満開の花を咲かせ、夏にはにぎやかな蝉の声を集め、秋には紅や黄色へと衣替えをする。巨大なコンクリートの不愛想な塊に、唯一彩りを添えてくれているモニュメントのような存在。幸い、震災で根が折れたりすることもなく、すっくと立っている。その桜の木の前に噴水の出る小さな円形のプールがあり、夏には子供達がここで水浴びをすることが出来たのだが、震災の被害を受けて底面に亀裂が出来たため、いまは水が枯れて使用できなくなっている。その脇に藤棚があり、その下にひっそりとベンチがある。ブルースの声はそのベンチのあたりで響いているような気がした。僕は眼を凝らしてみた。藤棚の陰でなにか黒くて丸いものがもぞもぞと動く気配があった。それは猫だった。黒猫がベンチの上にうずくまっており、隣に池谷さんがいた。「やあ」と池谷さんが小さな声を出した。心なしか、いつもよりひと回り小さく見えた。
「こんばんは。ここで何してるんですか?」
「弔いや」と池谷さんが答えた。猫がその声に反応してふっと首をあげた。鼻からヒゲがぴんと白く張っている。
「とむらい?誰の?」
「わしの息子。10年前に亡くなりよった」
「え、そうだったんですか、知らなかった」
「東大阪に住んどったんやけどな。10年前、強風に煽られて、見張り塔から落ちて死んでもた」
「見張り塔?」
「ああ、測量やっとったんや。大きな敷地を測ろう思たらな、高い所にのぼって見なあかん。その時はちょうどいまごろの季節で、台風が来よってな。無理せんでいいのに、息子は期限が迫ってるからいうて、台風の中で仕事しよってからに・・・落ちてもた」
「そうでしたか」
「今日が命日や」
「・・・」
ブルースの旋律は僕たちの周りをしばらく回遊したあと、どこかに姿を消した。
池谷さんはうなだれていた頭をゆっくりと上げた。
「ところで三島はん、票集めはどんな感じや?」あと少し、かな。ぎりぎりの線ですね。
「絶対勝つ」そうですか?
「今度は大丈夫。このマンションが味方する」そうですね。そうだといいんですが。
「勝つ。勝たないかん」黒猫もヒゲを立てて勝つ気でいるようだった。
 

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