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[第2部 復興](8)

この署名の持つ意味がわからんのですか?


8月の最後の週、A、D棟の署名が集まってきた。賀来さんや長部さんは、周囲の様子を気にして、夜中にこっそり書類を届けにきた。田代さんが集めるはずのB・C棟の署名だけがまだだった。田代さんは、この間僕の家で打ち合わせ会をして以来、行方不明だった。この話を聞きつけた遊び仲間のプーさんは、
「どうせヨットやろ、ハワイ辺りに遊びに行ってるのちゃうか」と無責任なことを言う。8月30日(日)の理事会に全署名を提出しなければ、9月中に臨時総会を開いてひっくり返そうとするこっちの計画が日程的に難しくなる。9月末でいまの理事会の任期が終ってしまうので、それ以上総会の日程を遅らせることはできなかった。次第にこっちの神経がじりじりしてきていた。
「三島さん、署名用紙のコピーあるか?もうわしがB棟の分は集めたるわ」池谷さんが言う。
「いやあ、でもE棟の池谷さんがB棟の署名集めに回ったら住民が変に思いませんかね?」
「大丈夫や。わし、B棟にも家もってんねん。娘夫婦を住まわせとるさかい。わしはB棟の区分所有者でもあるねん」
「あ、そうだったんですか」木曜と金曜の2日間で池谷さんはそのコピー用紙を署名とハンコで一杯にしてもってきてくれた。
「こんなもんや」
田代さんは前日の29日(土)の夜、ようやくC棟の分を持ってきた。
「すまんすまん、肝心の俺のハンコがみつからんでなあ」
「田代さん、ハワイ行ってたんと違うの?」
「とんでもない。最近仕事がなくて困ってたら、急に新幹線のトイレの設計が舞い込んでな。もう弟子ふたり使うて事務所で毎晩徹夜徹夜の連続や」
「昼間デートしてるんでしょ?」
「まあな」と白い歯を出して、にっと笑う。
 
明くる朝、8月30日、日曜日。
朝10:00から開催される理事会に、いよいよ署名を持ちこむことになった。署名は総数90名を超えた。僕が理事をやっていたときは、理事会はマンションの敷地内の会議室で行われていたが、いまは近所の「市民会館」を借りてやっている。マンションから500mくらいのところである。賀来さん、長部さんとマンションを出たところの路上で待ち合わせ、そこから歩いて「市民会館」へ向かう。田代氏は来ない。今日も仕事か、ヨットか、デートだ。日差しはいつもよりやや弱く、夏が終ろうとしているのが感じられた。僕が2人に挨拶すると、長部氏が
「昨日の夜、須崎から電話がかかってきよりましたよ」と愉快そうに言う。
「えっ、どんな?」
「いきなり電話口で名前も名乗らずにあいつの声で、“おまえ余計な真似さらすな”って、えらい品のないこと言いよるさかい、こっちもね、“阿呆、おまえわしをそんなんで脅せる思うとんのか、くそったれ”言うてガシャン、電話切ったりよりましてん」
「はあ、すごいですね、須崎氏も相手を間違えた」
「そうでんな」ガハハ、と笑う。豪快な人である。ゆるい坂道を下っていくと道端に雑草が高く生い茂り、空気が乾燥しているのか、ダンプが前を横切ると、もうもうと土煙が立ちのぼる。何か変な気分である。西部劇でこんなシーンがなかったっけ?3人のガンマンが待ち合わせて、そこから敵の陣地へ乗り込む・・・いやいや、これから行くのは、瀬戸さんがリーダーの、味方の場所なのだが・・。
「ああ、そこの席、空いてますよ」
「市民会館」の会議室に入ると、理事の1人が僕達にテーブルの向こう側を指差した。すでに10名程の理事が椅子に座って書類を広げている。冷房が入っていて、玄関で履き替えたスリッパの底から冷気がひんやりと伝わってくる。
「ごくろうさまです」と副理事長の(ジョギングの)皆川さんから声がかかる。弁護士の中川さんが隅の方に座ってコーヒーを飲んでいる。正面に出原氏と瀬戸さん。瀬戸さんが口を開いた。
「・・それでは次の議題へ移ります。みなさんもう御存じだと思いますが、今日おいでの三島さん、賀来さん、長部さんは前回の総会で否決された〈段階的合意形成案〉を再度審議すべき、という主旨の署名運動を展開され、総会を開くのに必要な、当マンションの1/5以上の住民の同意を得て、本日ここに来られました。三島さん、代表として話してもらえますか?」
僕は署名運動の主旨を述べ、90人分の署名用紙を理事長に提出した。理事はそれを回覧し、会議室はしばらく静まりかえった。中島さんは相変わらず黙ってコーヒーを飲んでいる。
「さてこれ、どうしますかなあ」ずいぶん時間がたってから、出原副理事長がつぶやいた。そして、ふふっと笑みを浮かべながら僕の方をみて
「三島さん、あんたどうするつもり?これ」と言った。僕がポカンとしていると、横に座っている皆川氏が大きな声を出した。
「出原さん、どういうことですか?あなたこの署名の持つ意味がわからんのですか」
が、出原氏はそれを遮るように
「三島さん、理事会はね、これは受け取れません」
「どうしてですか」と僕が聞くと
「わしらはね、もう降りたんや。な、瀬戸さん」と瀬戸さんの方を見る。瀬戸氏は黙って腕組みをしている。
沈黙が室内を支配した。僕は出原氏に質問した。
「出原さん、降りたとおっしゃいますが、まだあなた方の任期は1ヶ月、残ってますよ。そしていまこの時点で住民から総会をもう一度やるべし、という請求が出されているんです。だったらそれ、受けるべきじゃないですか?」すると出原氏が僕の顔を見据えて話し出した。
「あんたね、我々が今回の議案書を作るのに、どれだけ手間かかったか、わかっとる?これを詰めるのに、まるまる1年かかったんよ。業者とも調整し、弁護士の意見も聞き、住民には4回も説明会を開いた。それだけやって8月の総会へ持っていったんや。そうしたら、4票足らんかった。否決された。じゃあどうしたら、この提案書が通るのか?どこをどう直したらいいのか?わしにはそれがわからん。他の理事も多分、わからん。だったら同じでいいのか?おんなしこともう1回やって、またあかんかったらどうする?」
「何遍でも、通るまでやるというのは」
「じゃあ、あんたがやりいな。わしらやのうて」すると皆川氏が割り込んだ。
「いや僕はね、これが最後のチャンスやと思う。この西宮セントラルハイツが復興できるかどうかの。僕はこのチャンスを活かしたい。みなさん、どうですか?もう一回、死んだ気になってやり直しませんか?」別の、高齢の理事が手を上げた。
「私は、これを受けてもう一度やるべきだと思う。この間は4票、足らなかったが、大勢はもう修復に傾いていることが分かった。それがもう誰の眼にも明らかになった。だから建替え派も、もうあかん、思てるに違いない。もう1回やれば勝てます」また別の、若い理事が小さな声で言った。
「出原さんが言うように、もう1回おんなじことをやるのはちょっと・・・抵抗ありますね」
「じゃあ変えればいい」と再び皆川氏が発言した。
「三島さん、あれから毎日のように手紙が来てます。その中にはあの提案書のここが引っ掛かる、ここを直してほしい、という具体的な指摘が記されているのもある。それを理事会で検討して、提案書に若干の修正を施せばいい。そうしたらもう1回やる大義名分が立つでしょう」
「どこを変える?」と出原氏がいぶかしげな顔を向ける。
「いま住民から来とる指摘は、工事施工者の“定岡組”を止めて白紙に戻せ、とか、棟別の費用負担割合を再検討しろ、とか、資金集めは工事が着工してからにしてくれ、とか、全部無理な注文ばかりだ。要するにね、住民はあんましわかっちゃいないんだ。この提案書の美味しいところだけつまみ喰うしようったって、そうはいかないんだ。全部セットなんだよ」
「それに関しては、ですね」と僕は押し返すように言った。
「僕はこう思います。今回の修復工事に関する部分は全部セットで第1号議案とする。で、残りの、“今後の体制”に関する部分、つまりいまの理事会が来期も引き受ける、とか、工事の進捗を監視する“実行委員会”を設けるとか、このマンションの10年後のビジョンを考える“復興委員会”を設置するとか、そういう部分、これを分離して第2号議案にすればいい。ここは、分離できますよね?そうしてまず第1号議案を決議し、これが通ったら第2号議案に進む、こうすれば、第2号議案だけに反対だった人も、第1号議案で賛成に回ってくれるかもしれない。そうじゃないですか?」また部屋がしんとなった。ここが正念場だろうな、と僕は思った。…と、出原氏が流れを振り切るように口を開いた。
「わしは降りる。こんな小さな動きにいちいち関わっておれん」

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