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−序−

2020年1月17日夕刻、私は西宮市にある自宅近くの駅から電車に乗り、三宮駅前の東遊園地へ向かった。震災25年目の追悼行事に参加するためだ。
列車が駅を出てしばらくすると、山側に大きなマンションが見えた。私たち家族が住んでいたあの巨大なマンションだ。25年前に起きた阪神・淡路大震災で大きく損傷したが、住民の手で復興を遂げ、さらに20年後に外壁を塗り直して現在に至っている。白と赤のコントラストが印象的なデザインだが、すでに築45年を過ぎており、その古めかしさはいかんともしがたい。

三宮駅で電車を降り改札を出ると、そこに田代さんが待っていた。田代さんはかつて私と同じあのマンションに住み、阪急夙川の駅前に小さな設計事務所を構えていたが、いまは事務所を畳み、神戸にある大手車両メーカーに勤務している。もう65を超えているはずだが、引退する気配はない。
「どう?景気は」と私が挨拶すると、穏やかに笑いながら首を横に振る。
「三島さん、あれからもう25年や。わしらも年取ったなあ」
「田代さんはちっとも変わってへんけどね」と私。相変わらず真っ黒に日焼けした顔だ。
そのとき、横から「ようよう」とプーさんが割り込んでくる。同じマンションにいた福山さんだ。体の動きがクマのプーさんによく似ているので私が勝手にそう呼んでいる。
「早う行かんと式典に間に合わんで」
「そやな、行こか」と待ち合わせた3人は会場の方へ足を向けた。
平日の昼間だが、イベント当日ということもあって、駅周辺は休日並みに混雑している。
フラワーロードを歩いて市役所付近まで来ると、マイクを握って歩行者に演説している中年の男性が目に入った。傍には震災記念日の集会を告知する手作りの看板が立っている。

「…皆さん、地震そのものはたったの15秒だったかもしれない。だけどね、この被災地が受けた苦しみはその後もずうっと続いてる。今日まで25年続いて、まだ終わっちゃいないんだよ。それはなぜか?国の無策、行政の無策が原因なんだ。俺たちは今も苦しんでいる。このことを神戸市や、県や、国に訴えなくてはいけないんだよ」

ほんまやなあー、とプーさんが言う。
「まだ家の借金払てる人もおるで、壊れた家の」
「俺も飲み屋の借金、まだ残ってるわ」と田代さん。
「そら自業自得やな」プーさんがダウンのポケットに手を突っ込んだまま言う。
会場の入り口には、被災者の願いを書き込んだ竹トンボや、素朴な雪の人形が置かれていた。奥に進むと広大な敷地が視野に入り、太い竹を割った中にロウソクを灯した無数のオブジェが我々を出迎えた。その本数は犠牲者の数と同じ、6,434本。
壮観やな、とプーさんがつぶやく。
こんな日だったんだな、と私はあの日を振り返る。すると目の前に急に暗い闇が現れ、霧の向こうに斜めに傾いたマンションがかすかに浮かぶ。そしてあの旋律・・・。
 
「三島さん、あの頃の住民の消息、知ってる?」とプーさんが私に聞いた。
「いや…もう長いことあのマンションには行ってないから」と私。
「大物2人が亡くなったよ」と田代さんが代わりに答えた。
「2人?」
「ああ、大山さんと須崎。」…そうなのか。
ここに居る我々3人はあのマンションを出て、今はそれぞれが一戸建てに住んでいる。そして皆、還暦を超えている。25年も経つと状況が様変わりするのは当然だろう。
じゃあ池谷さんは?と私は急に不安がこみ上げてきた。あの頃すでにかなりの高齢だったはずだ。
「池谷さんはまだ生きてるらしい。猫もね」とプーさんが答えた。「ただ、だいぶ痴呆は進んでるらしいけどな」
「そうか、まあ生きてはるだけでもありがたいな」と田代さん。
本当にそうだ。生きているだけでも…。私はあのイタズラっぽい顔をした池谷さんの姿を昨日の事のように思い出した。それは長い苦悩のトンネルの中に射し込む一筋の光のように感じられた。
「三島さん、まだ式典まで時間あるな。どこかでコーヒーでも飲もか」
田代さんがコートの襟を立てながら私に告げた。今日はことのほか寒いのだ。
そうやな、と私はうなづき、二人の背中を追いかけるように、地下のカフェへと続く薄暗い階段を降りていった。

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